――当時59歳。すでに業界では、こわもてのキャメラマンとして名前も通っていた。

「黒澤明だったら……」って言うのを美術担当が聞いていたんだね。「それってやっぱり切れってことだよな」って変更してくれた。そんなふうに僕は、「黒澤さんなら」ってしょっちゅう黒澤さんの名前を使っている(笑)。キャメラマンは監督がいるのに電柱替えてくれとは普通は言わない。でも、予算があるからみんな替えてほしくても言いだせない。

 あの電柱がコンクリートでは困るんだ。それが映画全体を支配するから。健さんの駅長がいくら良くても、隣にコンクリートの電柱が3本並んでごらんよ。叙情が感じられない。詩情が全然違う。僕は黒澤さんの現場で育ってきたからこそ、そういうものにこだわるキャメラマンであり、監督なんだよ。

 映画をモノにしたのは黒澤明だけだと思っている。

 黒澤さんはなんてったってハリウッドやヨーロッパの名だたる監督も含めた中で、世界ナンバー1と言われた人。そんな人の現場を見てこられたのは、ものすごく大きな財産。僕がどんなに頑張ったって黒澤さんには迫れない。迫れないけど、僕はなんとか迫りたいって映画を撮り続けているんだろうな(笑)。

週刊朝日 2018年2月2日号