【文豪の湯宿】水上勉を推理小説家から「人間を書く」作家にした宿
文豪たちの作品に登場する温泉宿を訪ねる新連載「文豪の湯宿」。今回は「水上 勉」の「加満田」(神奈川県・奥湯河原温泉)だ。
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<奥湯河原の加満田旅館は文士の宿といわれて、太平洋戦後に幾多の文士が、長らく滞在して、仕事をした>
水上勉は、随筆「湯河原の思い出 小林秀雄晩景」で、加満田のことをこう書き起こす。水上自身は、<はじめてこの旅館に泊まったのは一九五八年の冬だった>そうで、<至極気にいったから、自分もちのカンヅメを計画してその年の冬から、長逗留するようになった。「越前竹人形」「飢餓海峡」「銀の庭」「緋の庭」など、わりと身を入れた仕事をした>と振り返っている。
水上は、生涯にわたってこの宿をこよなく愛し、たびたび逗留した。
「水上先生は大変おきれいで、お世話している方々はいつも女性でした」と微笑むのは女将の蒲田るりこさん。取材の折に湯河原駅から乗ったタクシーの女性運転手も、「子どものころ、水上先生によく遊んでいただきました」というから、頻繁に訪れていた様子が窺える。
なかでも1963年には、半年近く滞在した。「雁の寺」で直木賞を受賞して流行作家となった後のことで、同時に七作を手がけていたという。そのうちの一作が「飢餓海峡」だ。前年に週刊朝日に連載されたものの完結を見ず、後半500枚を書き下ろして63年に刊行された作品だが、水上は再版あとがきでこう綴っている。
<私はこの「飢餓海峡」を書き終ってから、殆んど、「推理小説」と冠する小説、つまり謎解きの面白さを本道とする小説には手を染めていない。謎解きよりも「人間を書く」ことの方向を、この作品は私に教えたのである>
松本清張と並び称された社会派推理小説の書き手が、この宿で執筆した作品を通じて変貌を遂げたことは、何かの必然だったのかもしれない。
加満田には、同時期に小林秀雄も長逗留していた。水上自身が、<小林秀雄先生に出会ったのはむろんこの宿で、一九五九年ごろだったかと思う>、<某作家が小林さんにやり込められて五時間も黙って頭を下げていた風景を語る人が多いけれど、私も何度かやっつけられて金縛りのまま夜明けをむかえている>と振り返っているように、深い交流があったようだ。
