帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「死を生きる」(朝日新聞出版)など多数の著書がある帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「死を生きる」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
養生訓では、医者に対して厳しい口調で様々に注文をつけている(※写真はイメージ)養生訓では、医者に対して厳しい口調で様々に注文をつけている(※写真はイメージ)
 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。帯津氏が、貝原益軒の『養生訓』を元に自身の“養生訓”を明かす。

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【貝原益軒養生訓】(巻第六の30)
医の子孫、相つづきて其才を生れ付(つき)たらば、世世(よよ)家業をつぎたるがよかるべし。如(レ点)此なるはまれなり。(中略)もし其才なくば、医の子なりとも、医とすべからず。

 養生訓では、医者に対して厳しい口調で様々に注文をつけています。

「医は仁術なり。仁愛の心を本(もと)とし、人を救(すく)ふを以(もって)、志とすべし。わが身の利養を専に志すべからず」(巻第六の30)

 仁愛とは人を思いやる心です。それを中心にすえて、自分の利益を求めるなというのです。

 さらに「万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云(いい)、きはめて大事の職分なり」(同)と続きます。司命とは、寿命を司(つかさど)る星の名であり、人の生命を司る神のことでもあります。医を志す人はこれほど重い職分であることを肝に銘じろということでしょう。そして、人の命に関わる仕事であるから「学問にさとき才性(さいせい)ある人をゑ(え)らんで医とすべし。医を学ぶ者、もし生れ付鈍(つきどん)にして、その才なくんば、みづからしりて、早くやめて、医となるべからず」(同)といいます。才能のない人は医者になるなというのです。

 
 続けて「五経のひとつ『礼記(らいき)』に医は三世をよしとするとある。しかし、医者の子孫がその才能と仁愛の心を受け継いでくれれば、もちろんよいのだが、なかなか現実には容易なことではない。もし、その才がなければ、医者の子であっても、医者にすべきではない」(同)と医者の世襲はだめだとくぎを刺しています。職業の選択が自由になった今でも、子どもに医者を継がせたい親が多いのです。江戸時代はなおさらだったでしょう。そのなかで、医者の世襲をはっきり否定した益軒の見識に感心します。

 駿台予備学校には医学部進学課程があり、私はそこで、年に1回ですが、20年にわたって講義をしていました。テーマは「これからの日本の医療と求められる医師像」です。

 医を志す彼らに私が要求したのは【1】パワフルであれ【2】ヴァルネラブル(傷つきやすい、弱い)であれ【3】メメント・モリ(死を想え)の3条件です。

 まず、いやしくも人を救うのですから、知力、体力、人間力のすべてにわたって、パワフルでなければいけません。一方で、弱い立場の患者さんに心底寄り添うのですから、相手と同じようにヴァルネラブルであることも必要です。つまり、パワフルであるだけでなく、弱さにも共感できる心を自分の中に持っていなければいけないのです。

 その上で人の生死にかかわるのですから、死を想うことによって確たる死生観を持ち合わせることが求められます。

 私はこの3条件を毎回、語っていたのですが、年数を重ねるごとに、あえて強調することがなくなっていきました。それは、教室にある種のやさしさが漂っているのがわかってきたからです。それはどこからくるのでしょうか。それは彼ら全員が一度は受験に失敗して挫折を経験しているからです。医を目指す青雲の志と挫折感が同居すると、えもいわれぬやさしさになるのです。君たちは黙っていてもいい医者になる。そう感じるようになりました。

週刊朝日 2017年10月20日号

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帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

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