《百歳は僕の十倍天高し》

 二人が初めて会ったのは、文通が始まってから2年後。13年の夏だった。夏休みを利用して、母親と一緒に上京し、聖路加国際病院を訪ねた。そのときのことを、凜さんは今も忘れない。

「すごい方ですし、年齢差もあって緊張しました。でも、日野原先生は慈悲のかたまりのような方でした。どんなものもその優しさで包み込んでくださるような、優しさを感じました」(同)

 この気持ちをこう詠んだ。

《百歳の師に抱(いだ)かれた夏休み》

 一方、凜さんの来訪を喜んだ日野原さんは、初対面の少年の表情や声をこんな句にした。

《頭上げ流す言葉にビオラの音(ね)》《半身を傾け少年目は白き》

 かくして、日野原さんの提案で始まった“俳句のキャッチボール”は、今年5月まで続いた。交わした手紙は30通あまり。5月末に届いたはがきは口述筆記だった。

 みずみずしい感性を持つ少年とのやりとりを、「ひひ孫のような君と俳句で心をかわすなんて、夢のようです」と手紙につづった日野原さん。初対面の凜さんを詠んだビオラの句について、「こういう言葉は、今まで私の俳句では出ませんでした。(中略)百二歳の私でもまだまだ成長できるんだという元気をもらいました。非常に愉快ですね」(同書から)と喜ぶ。

 家族や日々の生活、四季の移ろいなどの情景を句で表現し、写真やイラストとともに伝えてきた凜さん。日野原さんは、それに応えてくれていたという。

「いじめに遭っていた僕に、生きる希望をくださった方。僕は先生にお返しできなかったご恩を、どこかで困っている人に“恩送り”していけるような人間になりたい。6年間、あふれんばかりの幸せをありがとうございました」

 病院の説明によると、日野原さんは3月には食事をとるのが困難となり、最後は家族に見守られて、息を引き取った。90歳年上の俳句仲間との命のやりとりを振り返った凜さんは、こんな一句を贈る──。

《フレディと手を携えて恩師逝く》

週刊朝日  2017年8月4日号