聖路加国際病院の理事長室で笑顔を見せる俳句仲間の二人=凜さんの家族提供
聖路加国際病院の理事長室で笑顔を見せる俳句仲間の二人=凜さんの家族提供

 医師で、『生きかた上手』などの著書がある、日野原重明さんが7月18日、呼吸不全のため、都内の自宅で亡くなった。

 1941年に聖路加国際病院の内科医となって以来、「生涯現役」を貫いた日野原さん。生活習慣病の名付け親、民間病院初の人間ドック導入など、その功績は枚挙にいとまがない。また70年には、よど号ハイジャック事件に遭遇し、無事に生還した。

 日野原さんには、年齢を気にせず新しいことに取り組むチャレンジャーとしての顔もあった。ミュージカル「葉っぱのフレディ」の脚本を手掛けたり、103歳で乗馬を体験したりと、活動の場を広げていった。

 98歳で始めた俳句もその一つ。朝日俳壇などの選者を務める俳人の金子兜太さん(97)に添削をしてもらうなどして句作にはげみ、104歳になった2015年10月4日の誕生日には、104句を編んだ記念句集を出した。

 いのちの大切さを訴えてきた日野原さんにとって、俳句は、五・七・五の表現を楽しむ以上の存在だったのかもしれない。朝日新聞のコラム「99歳私の証・あるがまま行く」の11年6月11日付では、東日本大震災に触れ、俳句や短歌は「日本の庶民の文化として、(中略)音楽のような効果があるのではないか」と語った。

 このコラムをきっかけに始まったのが、「ランドセル俳人」で知られる俳人の小林凜さん(16)と年齢差90歳の交流だ。その様子は『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(ブックマン社)に収められている。

「わが家では、土曜の朝は食後に3人で日野原先生のコラムを読むのが日課でした。あのときは、俳句が“再起のエネルギーになる”ということが話題になったんです」(凜さん)

 凜さんは当時10歳。いじめに遭い、つらい思いをしていた彼の支えになっていたのは、5歳から始めた俳句だった。祖母がそのことを手紙にしたため、日野原さんに送ったところ、自筆の返事が届き、そこから交流が始まった。

 その秋、凜さんが日野原さんの100歳の誕生日に向けて贈ったのが次の句。

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