落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は、「撤回」。

*  *  *

 土曜の某日。ここんところの記憶力・集中力の低下のため、私は追いつめられていました。

「今日パパは午前中お稽古をします! 明日までに覚えなきゃいけない落語があります! 家族の皆さん、決して邪魔しないようにっ!!」

 と声高らかに宣言しました。

 まわりに「今、俺はヤバいんだよ!!」と打ち明けることにより、追い詰められているストレスが若干やわらぐことってないですか? 気休めですが、ちょっとだけ楽になりますね。すると、

「いやいやいや(笑)、今日は土曜公開授業(授業参観日)だからみんな学校あるし。家にいないし。邪魔しようがないし」

 と長男。しーしーしーしー、うるせえ。

「え!? 学校あるのか!! 公開授業……うーん、仕方ないな。パパものぞきに行くかな……」

 かみさんも行くのだから、別に無理して参加しなくてもよいのです。が、普段行けない土曜公開授業の日に自宅にいるという奇跡。そんな神様のおぼしめしに背いてはバチが当たります。

 ということで、午前中は公開授業へ。〈噺を覚える<我が子の成長の1ページを目に焼き付ける〉と思い込む努力をしながら、授業では上の空の我が子の後頭部を見つめ続ける3時間。

 帰宅。「よーし。これからしっかり覚えるぞーっ!」と気合を入れると、インターホンが鳴り「お届けものでーす!!」。

 お中元が3件届きました。中身を改め、「すぐに御礼状を書かねばっ!!」と筆をとります。

 普段であれば2、3日うっちゃっておくのですが、落語を覚える億劫さに比べれば御礼状書きなんて屁みたいなもの。〈噺を覚える<お中元を贈ってくださる方への誠意〉と思い込む努力をしながら、文章を推敲。

 すでに時刻は午後3時。

「ヤバいぞ、ヤバいぞー!!」

 口にすることで、少しはやってるつもりに(やってないけど)なるのでしょう。

 
「これから、いよいよ稽古すっから話しかけないよーに……」

 と言ったそばから次男が、

「パパ、髪伸びたね!」

「あ、床屋さんに……」

〈噺を覚える<こざっぱりした頭で高座に臨む芸人の美意識〉と思い込む努力をしながら、バリカンを当てられ、蒸しタオルに身をゆだねる。

 帰宅。午後5時。

「いよいよ稽古……、久々にパパがカレーでも作ろうかな!」

 思わぬ言葉が口をつきます。父の現実逃避とは知らず(妻と長男は気づいている)子供たちは「やったーっ!!」と歓声。

〈噺を覚える<子供たちの期待に応える父の威厳〉と思い込む努力をしているうちに、カレーができあがり、なぜかビールを飲んでいる自分。

 気づけば、明くる日。

「あの噺、やろうと思ってたけど中途半端なモノをお客様に聴かせるわけにはいかないよな。よし、ここは勇気ある撤退だ。来月までに稽古しておこう!!」

 そんなこんなで1月から先延ばしになってる噺がいくつかあるのです。

 国民の皆様に誤解を招く恐れがあるのでことわっておきますが、私はやる気がないわけではございません。これからも一層の緊張感をもって職責を果たし、職務に邁進していく所存であります。

 お盆明けたら稽古しよう。

週刊朝日 2017年7月28日号

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春風亭一之輔

春風亭一之輔

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/落語家。1978年、千葉県生まれ。得意ネタは初天神、粗忽の釘、笠碁、欠伸指南など。趣味は程をわきまえた飲酒、映画・芝居鑑賞、徒歩による散策、喫茶店めぐり、洗濯。この連載をまとめたエッセー集『いちのすけのまくら』『まくらが来りて笛を吹く』『まくらの森の満開の下』(朝日新聞出版)が絶賛発売中。ぜひ!

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