――76年、石原プロ制作のテレビドラマ「大都会 闘いの日々」の脚本を担当した倉本はその後、富良野に移り、84年に脚本家と俳優志望者のための富良野塾をスタート。翌年2月、小林専務から突然電話があり、その2日後、彼が雪深い富良野へやって来た。

 裕ちゃんが映画を撮るから「明日から体を空けろ」って言うんですよ。「何を言うんだ。仕事があるんだ」って言い返すと、「仕事を全部キャンセルして来い」と。「とにかく2、3日中に体を空けてくれ」って言われて、自分が裕ちゃんに「ドンパチではなくて……」と吹き込んだところもあるから、引きずられたんですね。翌週ハワイに拉致されました。吹雪の中から常夏の国へです(笑)。

 裕ちゃんは81年に解離性大動脈瘤で奇跡の生還を遂げて復活した後だから、ハワイへは静養に来ているのかなという思いがあったんです。空港に到着すると裕ちゃんが迎えに来てくれていました。滞在中はとにかくゆっくり映画の話がしたいって言うから、裕ちゃんの別荘で毎日毎晩ずっと映画の話をしました。さらに、裕ちゃんがシナリオを考えてくれと言うんです。

 実は(海陽亭で裕次郎と飲んだ翌日に)コマサから連絡があったときに、僕はすぐに裕ちゃんを主演にした「船、傾きたり」というシノプシス(映画のあらすじ)を1本つくっていました。まだ岡田真澄たちも存命でしたから、映画「狂った果実」の出演者たちの今がどうなっているのかを書いたんです。裕ちゃんはその内容に乗りました。ところが、コマサが「ダメだ、冗談じゃない」と言う。この議論がハワイの滞在中に蒸し返されました。

――文芸作品をつくりたい裕次郎と活劇をつくりたい小林専務。そのギャップを埋めようと倉本は悩み続け、ようやく台本を完成させた。

 今度は裕ちゃんが気に入りませんでした。「この箇所わからず」とか台本にいろいろ厳しい赤線を入れて突き返された。それでもう僕は「できないよ」と、最後はけんか別れのようになってしまった。

 当時、裕ちゃんが入院していた慶応病院の特別室の応接間で話したんですが、すでに相当悪くなっていたんでしょうね。病室を出てから渡(哲也)が追いかけてきて、「ちょっと飲みましょう」と言うんです。そのとき、実際は裕ちゃんは今、とても映画ができる状態ではないと明かされました。それでも裕ちゃんに生きがいを持たすべく映画をつくるという姿勢を示すために僕が頼まれちゃったらしいんです。「言わなくてすみませんでした」と渡に謝られて、「それならそれでいいよ」で終わりました。渡たちの気持ちにも搏たれましたしね。

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