倉本聰(くらもと・そう)/脚本家。「北の国から」をはじめテレビ、ラジオ、舞台で数多くの名作を執筆。現在、「やすらぎの郷」(朝日系)が放映中。また、「倉本聰 点描画展」を8 月20日までウッドワン美術館(広島県)で開催中(撮影/遠崎智宏)
倉本聰(くらもと・そう)/脚本家。「北の国から」をはじめテレビ、ラジオ、舞台で数多くの名作を執筆。現在、「やすらぎの郷」(朝日系)が放映中。また、「倉本聰 点描画展」を8 月20日までウッドワン美術館(広島県)で開催中(撮影/遠崎智宏)

 7月17日に没後30年を迎える石原裕次郎さん(享年52)は1970年代から「太陽にほえろ!」などテレビに活躍の舞台を移したが、映画づくりの情熱を生涯持ち続けた。撮れなかった「最後の映画」のシナリオづくりにたずさわった脚本家の倉本聰さん(82)に思い出を聞いた。発売中の週刊朝日ムック「没後30年 永遠のスター 石原裕次郎」からその一部を紹介する。

――裕次郎にとっては映画を撮ることこそが夢。その夢を託されたのが、裕次郎が初めてテレビに出た63~64年のトーク番組に構成作家の一人としてかかわっていた倉本聰だった。石原プロモーションがテレビにシフトしていた70年代、偶然、札幌で裕次郎と再会を果たす。

 裕ちゃんは自分の仕事の現状に、何となく不満を持っていたンだと思います。 僕が大河ドラマ「勝海舟」の執筆中にNHKともめて、北海道札幌で一人で生活を始めたのが74年。荒れた生活をしていました。当時住んでいたマンションの隣に、小樽に本店がある海陽亭というでっかい料亭があって、時々、食事をしに行っていた。裕ちゃんがものすごく親しい店でもあったんです。

 ある日、そこへ行ったら裕ちゃんが泊まってたんだな、多分。何となく飲もうという話になった。翌日の明け方までめちゃくちゃな飲み方をしたんです。裕ちゃんはとにかく飲んべえだからね。僕も底なしのほうで、二人で日本酒を一樽空けちゃった。それでも意識はハッキリしていました。

 そのとき、飲んだ勢いもあって「裕ちゃん、40過ぎていつまでもドンパチではないだろう」という話をしちゃったんです。「もう少しきちんとした映画なりテレビなりをやったらどうだ」って。彼はすごく真面目に人の話を聴いていました。徹底的に聞き役に回ってましたね。

 翌日コマサ(石原プロで専務だった小林正彦さん)から電話がかかってきてね。「うちのダンナに何を吹き込みやがったんだ!」って怒鳴られたんです。裕ちゃんの映画に対する考え方が突然変わっちゃって困ってるって。だから、「何を吹き込んだわけじゃないけど、いい年なんだからドンドンパチパチばかりじゃなくて、ちゃんとしたのをやったらどうだっていう話をしたんだ」って言ったら、「余計なことを言うな」ってけんかになっちゃった。僕とコマサとは仲が良くてバンバン言い合う仲だったんですけどね。コマサがとにかく何が何だかわからねぇって言うんですよ。これからつくろうという映画に対して、昨日まで言っていたことと全然違っちゃったって。

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