林:ご実家に戻られてから、お母さまが三味線や踊りを習わせてくださったわけですよね。

内海:お袋も下町の本所深川の生まれですから、若いときから芸事を習っていたのね。それで近所に住む三味線と踊りのお師匠の家に通い始めたけど、月謝を払ったのはあたし。下駄の鼻緒の内職が1日10銭。そうやって1円50銭ためて踊りと三味線を習って世の中に出ていった。親に黙ってチンドン屋の旅巡業についていったりもしてたから、そこいらの16歳とは違うわけ。

林:初めて漫才の舞台に立ったときは、「これこそ自分の生きる場所だ」と思われたんですか。

内海:いまは「漫才」というはっきりしたものがありますけど、昔はわかんなかったんですよ。だけど、舞台に出ると、「あれは漫才」ということになっちゃった。

林:戦時中は、戦場に慰問にも行かれたんですよね。

内海:行きましたよ、2歳の子どもを置いて中国まで。仕事は選ばなかった。「ひどい親だ」という人もいたけど、食べていくためには仕方ない。命がけですよ。戦後は演芸場が焼けて漫才の仕事ができないから、従兄弟が作った団子を吉原で売り歩いたり、「雇ってください」と言って浅草のキャバレーに飛び込んだり。

林:みんなに可愛がってもらって、売れっ子ホステスになったんですよね。

内海:私が勤めたのは1階がキャバレー、2階は結婚式ができるようなお座敷もある日本料理屋だった。だから2階で三味線弾いて、1階で踊って。重宝されましたよ。お客さんのなかにはどこかの社長さんや政界のえらい人もいて、花柳界でやるようなことを教えてくれるの。そこで客あしらいも覚えましたね。芸人としてあしらうお客とキャバレーのお客は、ぜんぜん違うのよ。

週刊朝日  2017年5月5-12日号より抜粋