作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は、「反権力」が人権と無関係で、セックスと同義だった日本に驚愕する。

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 子供の頃観ていたドラマを、今、見返すと、その性差別表現に驚くことが多い。大好きだった「刑事コロンボ」(アメリカでの放映は1968~78年)など、女はキーキー喚き散らす存在で、そんな女を黙らすために男が平手打ちするのは珍しくない。アメリカのドラマでもその程度なのだから、日本の作品は推して知るべし……とは思うのだけど、先日観た大島渚監督の映画「日本春歌考」(67年)は、想像を絶する性差別地獄祭りぶりだった。

 きっかけは、映画の中で「慰安婦」が描かれていると聞いたから。戦争の話ではなく、67年当時の若者の群像劇で、中で朝鮮人「慰安婦」を想起させる春歌が歌われるという。

 ネット上でのレビューをいくつか読んだが、「傑作」「かっこいい」というのが基本評価で、「韓国の民主化運動への共鳴」といった評価もあり、内容に多少の期待を込めて見始めたのだが……。

 最初の感想は、ウーマンリブの女性たちへの感謝の念だった。あの人たちは、こんな空気の中で戦っていたのか。とにかく性暴力、性暴力、そして性暴力の連続だった。

 映画の中で女の体は「反権力」の道具で、レイプは「戦い」の比喩でしかない。レイプは基本、集団で行い「おまえの番だぜ」「早いな」と笑う男たちはのびのびと振る舞い、女は死体のように転がるだけ。春歌を歌うのは吉田日出子演じる在日朝鮮人という設定の高校生だが、彼女も脈絡なく集団レイプされ、ラストシーンで唐突にチマチョゴリ姿で登場する。そして最後は女の裸を前に朝鮮半島と日本の関係が語られる……。なにそれ!

 驚いた。50年前、「反権力」は人権と無関係で、セックスと同義という世界があったのだ。とはいえ、どうなんだろう。ねぇ、この価値観、完全に過去のものって言える?

 
 先日、韓国のフェミニストに、何で日本は性暴力ポルノがこんなに発展したの? 日本のフェミは何してたの? と問われ、私は答えられなかったのだ。

 フェミと言えば、レイプ・ロリコン表現反対というイメージがあるが、日本では少数派ではないだろうか。「欲望は取り締まれない」「文句言うより女性が監督になろう」と、人権の問題から論点をずらし、セックスの反権力性を保ちたがる団塊フェミは珍しくなかった。それが私には本当に謎だったのだ。それでも大島渚の映画を観て、上の世代がどれほど暴力的な空気の中をサバイブしてきたのかを理解したい。

 AV出演強要問題に、JKビジネス、繰り返される性暴力事件と、性を巡る暴力は苛烈さを増し、若い人が犠牲になり、また加害者になっている。上の世代の大島渚的呪縛が、毒のように効いてきた結果だ。「反権力」「表現の自由の証し」としてのセックスファンタジーから解放され、人権の視点で性を考える方向に、この国のフェミは舵を切るべきだ。

週刊朝日  2017年3月10日号

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北原みのり

北原みのり

北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表

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