だが、そのわずか4カ月後にはドイツがポーランドに侵攻。直後に英仏がドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まる。翌年9月には日独伊三国軍事同盟が締結され、日本も太平洋戦争に突き進んでいく──。

■1940~50年代
東条英機の自殺未遂に遭遇
太宰治の愛人の日記をスクープ

 40年代前半は太平洋戦争の話題が中心だ。だが、今から見返すと、首をかしげざるを得ないような「国威発揚」を前面に打ち出した記事が目につく。

 海軍報道部大佐の平出英夫のインタビュー記事「ハワイ マレー沖 両大海戦を讃ふ」では、真珠湾攻撃、マレー沖海戦の勝利に浮かれムード。米軍が太平洋を渡って攻めてくる可能性を問われた大佐は豪語する。

<夢ですね。絶対に出来ますまい。少くとも三年後に補充できるまでは駄目でしょう。しかし、三年といってもその間にまた何隻やられるか知れませんからね、或いは永久に出来ないかも知れません>

 敵を甘く見たツケは大きかった。この3年余り後、米軍は沖縄に上陸。全国各地が空襲に見舞われる。

 敗戦直後の45年9月16日号には、記者が元首相、東条英機の自殺未遂の現場を目撃したという、衝撃のスクープが載った。

「なぜ拳銃自殺か “こめかみ撃つと顔色が変る”」と題されたこの記事は、同年9月11日、GHQ(連合国軍総司令部)による拘引命令を受け、米軍少佐らが東京・世田谷の東条の自宅を訪れた場面から始まる。

 ここに居合わせた「科学朝日」記者の長谷川幸雄は、一部始終を目の当たりにする。

 窓越しに来意を告げた米軍人に対し、東条は「只今行きますから一寸待って下さい」と答え、内側から鍵をかけた。<それから二、三分して私達は無気味な拳銃の銃声を室内にきいた>

 異変を察知した軍人や記者らが玄関の扉を打ち破って邸内になだれ込むと、東条は応接間の椅子にぐったりと埋もれ、だらりと下がった右手の下に愛用の拳銃が落ちていた。

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