〈土壌処理及び地中埋設物の撤去については、新市場の着工時期までには、その処理が完了することが必要です〉(都)

 00年10月には、東ガスとの交渉役は浜渦武生副知事(当時)に交代。都は01年7月、豊洲の「先端部」を確保することで東ガスと合意したが、汚染対策は不完全だった。08年に環境基準の4万3千倍のベンゼンが検出されて以後、都は対策に約850億円を出費した揚げ句、現在も汚染に苦しめられている。

 果たして、当時の都は汚染についてどう考えていたのか。交渉役の福永元副知事を電話で直撃した。

──土壌汚染については、どういう認識だった?

「当時は土壌の問題は、シビアなかたちではとらえていなかった。市場として対応できる範囲の中で、きちっと処理できるということで進めていたと思います」

──豊洲が移転候補地に決まった経緯は?

「鈴木俊一都知事のころからいろいろな所を選択肢に入れて考えた。大田市場への移転や築地の再整備などいろいろな案が出たが、みな帯に短し。豊洲しかないと決まったのは青島知事の時代です」

──青島氏が決断した?

「これだけの大きなプロジェクトだから、知事が言うからハイ、わかりましたというシステムではない。担当部局が候補地を比較検討し、究極的には豊洲しかありえない、というプロセスでここまできている。(後の混乱を)知りながらやった、ということではもちろんない。それだけ積み上げてきたわけですから」

 結局、移転は都職員による検討の積み重ねで決まった、という。混乱の「真犯人」を特定することは難しいが、当時の都職員たちが汚染を甘く見ていたことが失敗の「原点」だったのではないだろうか。(本誌・小泉耕平)

週刊朝日  2017年2月3日号