「それからは東京−大阪を夜汽車で行ったり来たりする生活をしていました。だんだんと欲が出てきてね。アメ横の卸さんのそのまた大もとの仕入れ先から直で仕入れたら、もっと利幅が出るだろうと思って大もとを調べました」

 食品を追っていくと、東京都千代田区のある有名なビルに辿り着いた。

「ビルの一室を訪れると、GHQにある司令官マッカーサーと一緒に日本へやってきた米兵の幹部の部屋だった。日本人の担当通訳がついていたので、取引を始めたいと伝えました」

 時代をつくったスーパー経営者たちは、戦後の闇市から出発した人たちが多い。スーパーのカリスマと呼ばれた、ダイエー創業者・中内功氏は神戸の薬屋のせがれだった。戦争では、フィリピンの戦地で死線をくぐり抜けて生還。戦後は、兵庫県・三宮の闇市からスタートした。

「みんな闇市からがんばった。イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊さんだって、北千住(東京)の闇市で、バラックのような店をつくって、メリヤス肌着を売っていた。関西中心のスーパー・イズミヤ創業者の和田源三郎さんは大阪の焼け跡に掘っ立て小屋を建て、繊維品を売った」

 清水氏はライフを立ち上げる前、大阪の千林にできたダイエー1号店、神戸の2号店へ偵察に行った。

 創業者の中内氏は、2号店で自らトラックからバナナを下ろしたり、大きな樽からコンニャクを掴みだして客に売っていた。

「中内さんが亡くなるまでお付き合いしましたが、ダイエーの売上高が1兆円を超えたとき、パーティーがあり、私も出席しました。中内さんは『清水さん、1兆円なんて、とば口だ。次は4兆円狙うよ』と威勢が良かったね。実際、ダイエーの売り上げは3兆円を超えましたが、3兆数千億円までくると、途端にダメになり、現在はイオンの子会社になってしまった。商売はまず、足るを知ることが大事だと思う。留まるを知る。100歩のところを50歩で留まる。必ずものには終わりがきます」

 無印良品、ロフトなど新しい発想で一世を風靡した西武セゾングループ創業者・堤清二氏。詩人であり、流通業の雄だったが、西武百貨店はそごうと合併した後、セブン&アイの子会社になった。スーパーの西友はアメリカの流通業ウォルマートの傘下となった。

「堤さんは頭がいいし、私もわりと親しくさせていただいて、食事に行ったりしていた。『いっぺん、あなたの社長室が見たい』と言ったら、『ああいいですよ』と言って、私を招待してくれたことがあります。部屋の中が白で統一されていて、ひんやりした感じがして、あれっと思ったものです。堤さんは親会社の西武鉄道をバックに、西武百貨店、西友、良品計画、外食産業などいろんなことをやったが、4兆円を超えたところで中内さんと同じように崩壊した。堤さんが亡くなって残ったのは良品計画とカード会社だけ。人間の欲望ってきりがないもの。もっともっと大きくしたいと思ったらつぶれちゃう」(本誌・上田耕司、森下香枝)

週刊朝日  2017年1月27日号