「家がないんだから、防空壕で生活した。雨が降ってくると、阪急電鉄のガード下へ移動した」

 路上ではやせ衰えた戦災孤児があふれ返っていた。朝起きると、飢え死にして、動かなくなった死体が転がっているのを目にした。

 ゴーストタウンのような街で、梅田駅前の闇市のある一角だけは、活気に満ち満ちていた。

「復員したときに身につけていた水筒や毛布を地面に並べたら、あっと言う間に売れた。このとき、あっそうか、モノさえあれば買い手がつくんだと気づいた。ましてや食料品はなおさら。私はこうして闇市で露天商人を始めました」

 親譲りの商売人。闇市は非合法だったが、露天商人の提供する食品で、人々は飢えをしのいでいた。

「店先にたばこや、漁師から売ってもらった魚を並べて売ってました。屠場へ行って分けてもらった牛肉をレストランに卸す仕事もしていたね」

 汚い露店でも、どんぶりを突き出し、客がやってきた。立地のいい場所ほど繁盛するのは商売のセオリーだった。

「露天商人たちがいい場所を争って、暴力事件も起きていた。殺気だっていた」

 韓国人や中国人の同業者たちは戦勝国だから、比較的いい場所を取って韓国、中国の国旗を立て、ここは自分たちのシマだとアピールし、独占したという。

「こっちも一人じゃ太刀打ちができないから、復員兵を3人くらい集めて、警察へ行き、場所取りの仲裁をしてくださいと頼んだ。このとき、警察官からは『命令が出ないから動けない』と突き放された」

 清水氏ら露天商人は「戦争で生き残って、闇市で殺し合いをして死んだらシャレにならない」と話し合った。「俺だけのシマ」とか欲張らないで、みんなで分け合うルールをつくった。

「今の流通業界でやってるのと同じことを話し合っていたね(笑)」

 商売は軌道に乗り、終戦から8カ月後の1946年、大阪市・天満の15坪の店舗兼自宅に「清水商店」の看板を掲げた。

 夜汽車で東京に行き、アメ横で占領軍の横流し物資を買い占め、大阪へ持って帰ると飛ぶように売れた。

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