1950年に朝鮮戦争が勃発したことを機に、GHQに抑えつけられていた日本社会が変わると直感し、清水氏も上京した。

 謝氏らとバナナを輸入するための組合「日本バナナ輸入協会」などを1955年に設立。台湾を支配した蒋介石中華民国総統(当時)の盟友で、元陸軍中将の根本博会長のもと、清水氏が副会長を引き受けた。同年にGHQが命じた財閥解体令が廃止され、三井、三菱、住友、伊藤忠らの大手総合商社が息を吹き返し、転機が訪れた。

「バナナやパイナップル缶詰を直接、仕入れられるようになり、儲かりましたが、海外支店など巨大なネットワークを持つ商社と戦っても勝ち目がない。これまでためたカネで新しい事業を起こそうと決意しました」

 清水氏は復員後、大阪で闇市を開き、横須賀の米軍基地の中にあった食品スーパーなどで買い付けをした経験があった。

「ああいうものを日本でつくりたいな」という憧れを昔から抱いていたので、スーパーをつくろうと一念発起。欧米のスーパーマーケットを視察した後の1961年、ライフ1号店を大阪府豊中市に出店した。

「豊中に両親の隠居のための土地を251坪持っていた。そこにつくったんです。当時はすでに明治屋さん、紀ノ国屋さん、ダイエー、イトーヨーカ堂もスーパーを出していた。それらに負けぬようお金をかけ、オープンした店舗は大繁盛した。しかし、蓋をあけてみれば、ぜんぜん利益が出なかった。それからが大変でした」

 スーパーというのは、大量仕入れによる原価低減、10店舗以上を出店してチェーン化してようやく利益を出すビジネスモデルとなっていた。清水氏はバナナなどの輸入業を続けながら、死にものぐるいで3号、4号店を出し、10年がかりでついに10店舗まで拡大させた。そこでようやく利益が出るようになり、今ではライフは全国に262店舗を出している。

 清水氏はそんな苦労を「屁みたいなもの」と言う。

「戦時中、九死に一生を得た体験、闇市での壮絶な商いに比べると、苦労とは言えんわなあ」

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