昭和24年、御殿場の山荘で病気療養中の秩父宮さまをお見舞いし、秩父宮ご夫妻とくつろぐ昭和天皇と香淳皇后(中央の2人) (c)朝日新聞社
昭和24年、御殿場の山荘で病気療養中の秩父宮さまをお見舞いし、秩父宮ご夫妻とくつろぐ昭和天皇と香淳皇后(中央の2人) (c)朝日新聞社

 旧会津藩主松平容保の曾孫で、秩父宮勢津子妃の甥でもあった松平恒忠さん(80)が明かす、疎開先での秩父宮勢津子妃のお姿とは。

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 秩父宮殿下が療養のため、勢津子妃殿下とご一緒に静岡県御殿場の別邸にお移りになったのが昭和16年のことです。

 妃殿下は、私の父、松平一郎の妹にあたる方です。昭和18年、私の家族も御殿場に疎開し、秩父宮別邸にはしょっちゅう伺っていました。中庭に面した秩父宮さまのお部屋からは、富士山がよく見えました。眼鏡をかけた宮さまがニコニコしながら、中庭で転げまわる私と弟をご覧になっていたのを覚えています。

 ところで、勢津子妃殿下は会津松平家の出身です。

 祖父は、維新の際に朝敵の汚名を着せられた旧会津藩主松平容保です。皇位継承順位第1位の宮さまのお相手には畏(おそれ)れ多い、とご辞退しましたが、貞明皇后がぜひに、と望んでくださった。会津の旧藩士たちも、「これで逆賊の汚名が晴れる」と、涙を流して喜んだ。さまざまな思いを背負ってのご結婚だったのです。

 戦争末期になると、秩父宮別邸でも、食糧不足は深刻になりました。

「宮さまに少しでも精のつくものを食べていただきたい」と考えた勢津子妃殿下は、麦わら帽にモンペをはいて、庭を耕しました。

 昭和20年に入ると空襲も激化します。東京を襲ったB29爆撃機は富士山を目指して戻り、山の手前で左折し、グアムやサイパンの基地へ戻りました。レーダーを攪乱(かくらん)させるためなのか、爆撃機は御殿場あたりで銀紙をまき散らすんです。当時、国民学校3年だった私は、友達と争って拾ったものです。ある日、紙がほどけず芯がついた紙テープ状のまま落ちていた。さっそく殿下に献上したのです。

 すると殿下は、眼鏡をかけて、「これは興味深いものだね」と言うように、じっとご覧くださった。子供心に誇らしい気持ちになったものです。

 5月の空襲で宮城(皇居)や大宮御所、赤坂御用地にあった秩父宮本邸などのほか、当時、宮内大臣を務めていた妃殿下の父で、私の祖父でもあります松平恒雄の公邸も焼けました。祖母の松平信子が李王家邸(現・赤坂プリンスクラシックハウス)へ避難しました。そのとき、「李王朝最後の皇太子である李垠王(イウン)は、暖炉で書類を燃やしていた」。

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