2006年のフィデル・カストロ氏(中央)。キューバ国内の演説会で元気な姿を見せた (c)朝日新聞社
2006年のフィデル・カストロ氏(中央)。キューバ国内の演説会で元気な姿を見せた (c)朝日新聞社

 キューバ革命の英雄、フィデル・カストロ前国家評議会議長が11月26日(日本時間)に死去した。米国から600回以上にわたって暗殺を企てられても屈せず、「反米」を貫いた。90歳だった。死因は明らかにされていないが、近年は大腸を患っていたとされる。

 弁護士だったカストロは1959年、アルゼンチン人の医師チェ・ゲバラと組んで革命に成功。親米のバチスタ政権を倒した。以来、弟のラウルとともにキューバを率いてきた。

 元駐キューバ大使で、11月に著書『カストロ兄弟 東西冷戦を生き抜いた強烈な民族主義者』(美術の杜出版)を出したばかりの宮本信生氏はこう語る。

「毅然とした態度の兄フィデル、非常にソフトな弟ラウル。このコンビだからこそ数々の危機を乗り越え、うまくいったのです」

 カストロは革命後、米企業が持つ土地や建物を没収。農地改革に取り組み、マルクス・レーニン主義路線を宣言した。

「カストロは共産主義の前に人道主義者。権力の中枢にいても、実に質素な生活を好んだ。食べる肉は鶏や豚。高級酒でなく、キューバ産のラム酒を飲んだ。大農園の息子だったが、周囲の貧しい子どもたちの生活を目の当たりにして育ったからです」(宮本氏)

 食料は配給、医療・教育は無償……社会主義体制の下、貧富の差をなくすことに心を砕いた。米国の経済封鎖は重かった。一方で、旧ソ連や産油国ベネズエラからの援助があった。「反米」を旗印にした命をかけた政治運営だった。

 62年に「キューバ・ミサイル危機」が起きる。キューバに旧ソ連のミサイル基地があるとの情報を得た米国が、キューバを海上封鎖して武力攻撃を検討。米ソ核戦争の脅威が現実化し、世界中を震撼させた。

 米中央情報局(CIA)の文書の記録では、カストロ暗殺の企ては2006年までに実に638回にのぼる。その回数が世界一として、ギネス世界記録に認定された。狙撃、葉巻への毒混入、野球爆弾などの手法が企てられたが、いずれも失敗。密告者や反逆者が出ず、キューバでの求心力がいかに強かったかを示す。

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