この投稿には「河原田精也」という筆者名が記されているが、住所の記載はない。いかにも小説めいた書きぶりだが、この投稿欄は「実話よみもの」と銘打たれ、投稿規定に「作り話は採らず」と明記されている。とはいえ、この投稿がどこまで本当の話なのか、そもそも投稿者が本当に税務署員なのか、今となっては確認のしようがない。

 だが、この投稿がその後の新聞報道の端緒となったのは間違いないようだ。同紙は3カ月後の8月11日、「多田銀山の廃鉱に黄金四億五千万両」と題する記事を1面トップで掲載する。

 記事によると、終戦後、兵庫県神崎郡の庄屋の子孫にあたる大阪市浪速区の機械商、山本徳次郎氏が、戦災で傷んだ先祖伝来の木箱を整理すると、巻物3巻と絵図面2枚が出てきたそうだ。巻物は「慶長3年(1598年)、秀吉の命を受けた光照が4億5千万両を多田銀山の坑道に分散埋蔵した。その明細を幡野家代々に伝える」と記述していた、と報じている。

 50年代に入ると時事新報、産経新聞、毎日新聞も多田銀山(当時は多田銀銅山ではなく多田銀山と呼ばれていた)の秘文書の存在を相次いで報道。ほぼ同じ内容の秘文書が三重県の旧家からも現れたことが明らかになり、この時期から埋蔵金伝説を扱った各種書籍にも多田銀山の話が頻繁に登場するようになる。

週刊朝日  2016年12月2日号より抜粋