昭和には「流し」という生き方があった…

週刊朝日
 社会風俗・民俗、放浪芸に造詣が深い、朝日新聞編集委員の小泉信一氏が、正統な歴史書に出てこない昭和史を大衆の視点からひもとく。今回は昭和に活躍したネオン街の「流し」のお話。

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「飲めや歌えやの大騒ぎ」という言葉がある。酒を飲み、酔えば、好きな歌の一曲でも口ずさみたくなるのが人情である。カラオケなどない時代、北海道から沖縄まで、それこそ全国津々浦々のネオン街には「流し」と呼ばれる芸能者や職能集団がいた。ギターやバイオリン、三味線を手に「一曲いかがですか」。飲み屋をそれこそ流すように一軒一軒まわり、客のリクエストに応じてメロディーを奏でるのをなりわいとしていたのである。

 北アルプスの山々に抱かれた奥飛騨温泉郷(岐阜県)には、伝説の流しがいた。「君はいで湯の ネオン花あゝ奥飛騨に 雨が降る……」と、自ら作詞作曲した「奥飛騨慕情」が250万枚のミリオンセラーとなり、昭和の歌謡界を席巻した盲目の歌手・竜鉄也(2010年、74歳で死去)である。

 昭和11(1936)年、奈良県生まれ。飛騨高山で父と義母に育てられた。病気が原因で視力が落ち、26歳のとき光を失った。独学で体得したアコーディオンを抱え、流しの世界に入ったのである。

 奥飛騨でスナックのママをしていた美津枝さんと出会ったときは、40歳近くになっていた。美津枝さんによると、竜は極寒の真冬でも流しをしていた。屋外から暖かい店内に入る。髪の毛に凍りついていた雪がとけて額からポタポタ落ちたが、途中で演奏をやめることはなかったという。

 竜の口癖は「歌は語りだ」。聞く人の魂に届くように魂をこめて歌っていた。やがて美津枝さんは竜と駆け落ち。郡上八幡で開いた歌謡酒場は昭和54年の火事で全焼するが、翌年に発売した「奥飛騨慕情」の大ヒットで生活は安定するようになった。

 哀愁にじむ歌声。「演歌とは人の世に踏まれて咲く花」と竜。「流し」という仕事では、酔客にからまれて酒をかけられたり、殴られそうになったりすることもある。しかし、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶのがこの商売。「このバカやろう!」と罵倒されても、「下手くそ」と叱られても、「ヘイすみません」と笑い、丸く収めるのも芸なのである。

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