梨元勝なしもと・まさる/1944年、東京都生まれ。女性誌の記者を経て76年にテレビ界に。日本初の芸能リポーターとして、数々のスクープをものにした (c)朝日新聞社
梨元勝
なしもと・まさる/1944年、東京都生まれ。女性誌の記者を経て76年にテレビ界に。日本初の芸能リポーターとして、数々のスクープをものにした (c)朝日新聞社

 テレビに元気がないと言われる。インターネットの台頭、看板キャスターの相次ぐ降板──。今、あの男がいれば、画面に流れる情景も違って見えるかもしれない。芸能レポーター・梨元勝とともに仕事をした朝日新聞社の後藤洋平が回想する。

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「恐縮です!」と前置きしながらも、著名人にマイクを突きつけ、ズバッと斬り込んだ梨元勝。65歳で他界してから6年が経ち、8月21日に七回忌を迎える。梨元がメディアを通じて伝えたかったのは何だったのか。インターネットのユーザーが激増し、テレビの影響力が相対的に低下してきた今だからこそ、改めて考えてみたい。恐縮ながら、彼の遺した言葉の裏側に斬り込んでみよう。

 梨元には芸能一辺倒のイメージがある。だが、1982年に表面化した名門百貨店の不祥事「三越事件」では、商法違反(特別背任)の罪に問われた岡田茂・元社長を直撃。ほかにも、大麻所持で強制送還されたポール・マッカートニー氏、英国のダイアナ妃の離婚、来日した旧ソ連の元大統領ゴルバチョフ氏の取材を手がけるなど、社会的、国際的な分野でも活躍した人だった。

 梨元をよく知る芸能リポーターの井上公造さん(59)はこう振り返る。

「真実の情報を得るためには手段を選ばない。非常にジャーナリスティック。いつでも臨戦態勢でした」

 井上さんはサンケイスポーツの記者だった30年前、スカウトされて梨元の事務所に入った。

「今も梨元さんの教えにならい、急な海外取材に備えてパスポートと、現地の空港から現場までタクシーで移動することを想定した現金500ドルを持ち歩いています」(井上さん)

 何はさておき「現場第一」だった。テレビ朝日で仕事をともにした芸能デスクの中島亨兵さんによると、梨元は芸能人が通う洋服店や料理店、バーなどに頻繁に足を運んでいた。

「一般の人々を大切にし、そこから得た情報を元にした取材も多かった。そうすると、一度情報をくれた人も喜んで、ますます情報をくれるようになる」

 特定の事務所に情報をもらって借りをつくることは好まなかった。その理由について、中島さんは「後日、別件で配慮を求められる可能性を考えていたから。梨元さんの姿勢は徹底していた」と振り返る。

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