「商品でなく家族的な思いがありましたからね。たとえば紅白歌合戦のリハーサルのときなどに(NHKの周囲にコンビニも何もない時代)、うちの家内に楽屋への差し入れのお重を作らせていました。そうしたら娘がやきもちやいて。『パパはいつも淳子のことばかり、私は百恵ちゃんのほうが好き』なんて言って。父としては切なかった(笑)」

 淳子がずっと芸能界にいたら、今ごろはいい女優になっただろうと福田氏は言う。その演技力を褒める人は多かった。19歳のときに舞台「おはん長右衛門」で東宝歌舞伎の大御所、長谷川一夫(当時70代)の相手役を好演して舞台の評論家を驚かせ、21歳のときに初主演したミュージカル「アニーよ銃をとれ」では文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞、28歳で芸術選奨大衆芸能部門文部大臣新人賞、29歳のときには「女坂」で菊田一夫演劇賞を受賞した。

「萩本欽一さんには『福田さん、この子は歌なんて歌ってる子じゃないよ』と言われたし、テレビ局のプロデューサーにも『今は淳子ちゃんと呼んでいるけど、そのうちに桜田さんと呼ぶようになる日がくる』と言われました。女優を続けていたら、今ごろは明治座の看板を背負っていたかもしれない。『放浪記』なんかも見れたかな。この年になって、そんなことをふと、思ってしまうんです」

 ところが、淳子は92年に統一教会の合同結婚式に参加。93年に公開された映画「お引越し」への出演以降、芸能界から遠ざかったが、淳子も相澤氏が亡くなった折、通夜に駆けつけた。

「育ての親は忘れていないんだと思うと嬉しかったですね。その後もお墓に連れていってほしいと言われて、何度か一緒にお墓参りに行っているんですよ」

 淳子にとっては、百恵とだけでなく、相澤氏との絆もまた永遠のようだ。(一部敬称略)(本誌・藤村かおり)

週刊朝日  2016年8月12日号より抜粋