「世間で評判になってから追いかけるのではなく、その前に注目する。マスコミは勉強不足」

「週刊朝日も若い芸人にスポットを当てたら」

 たしか、若手だった落語の立川志の輔、モノマネの清水ミチコや人気漫才ナイツの存在を聞いたのも最初は永さんからだった。

 永さんの旅の仕方を勉強したいと、沖縄や松山、それに岐阜県可児市などに図々しくついていったこともある。旅の人だけに市井の人をよく知っている。「無名人語録」というコラムも書いていた。永さんの知人宅でご馳走になったこともある。記者が苦手な料理を残すと、「もったいない。失礼だしね」と隣から箸をのばして食べてくれた。

 旅先からハガキもよくいただいた。「今日は本、明日鹿児島」とか「今週の記事は取材が少しあまい。六輔」というキツイ感想も。

 記事の切り口がわからずに永さんに相談すると、「仕方がない。ボクが書こうか」。落語の話題や沖縄問題、「誰も知らない渥美清」といった追悼も。改めて調べてみると6本も手記をいただいていた。永さんにとっては手のかかる出来の悪い記者だったに違いない。野坂昭如さん、小沢昭一さんとの「中年御三家の武道館公演」から29年、というテーマで鼎談していただいたこともある。これも永さんの提案だった。テレビ草創期のことを黒柳徹子さんと4時間半も話し合ってもらったことも。

 週刊朝日の似顔絵塾にも永さんは自分の似顔絵を何回か送ってくださった。お茶目な人だった。

 病気で車椅子生活になってからは、お会いする機会が急速に減った。体力的に弱くなった永さんに会うのが怖くて息を潜めていた。

 最後に会ったのは今年1月18日。TBSラジオ「六輔七転八倒九十分」に出演したときだ。共通の知人であるタレントの松島トモ子さんに「山本クンにさりげなく会いたい」と言ったと聞いて、トキメク思いで出かけたのだ。トモ子さんの舞台に永さんがゲスト出演したとき以来だから、10カ月ぶりの再会だった。

 パーキンソン病と闘う永さんは、軽度認知障害(MCI)の早期治療をしている記者にとっては尊敬する大先輩だ。スタジオで古楽器プサルテリーで「上を向いて歩こう」(中村八大作曲、永六輔作詞)のさわりを弾いた。選曲がよかったと笑ってくれた永さん。別れるときには車椅子の永さんが「また声をかけるから」。ここまで書いて、加齢からか涙もろくなった記者は去来する思いで胸がいっぱい。鼻の奥がジンジンし始めた。天国から永さんは「メソメソしないでオチは笑いで」と言うに違いない。けれど笑いで締める芸は、ぼくには無理だ。本当にありがとうございました。

週刊朝日  2016年7月29日号より抜粋