昭和29年、遺族援護法改正により、自決した軍人・軍属に援護を広げるための事例調査に携わり、おびただしい自死の記録に接した。

 復帰前の沖縄にも3週間現地調査に入った。戸籍も失われて困難な調査活動のなかで、ひめゆり部隊、鉄血勤皇隊など動員学徒の悲劇の実態に接し、沖縄本島、座間味、渡嘉敷などの住民集団自決の現場に線香を手向けた。

 昭和34年9月の「伊勢湾台風」は、天皇の名代として皇太子(現天皇)が被災地に飛んだほどの「明治維新以来最大」の自然災害と言われた。当時、藤森は三重県民生労働部厚生世話課長として被災者援護に日夜忙殺されていた。厚生省公害部庶務課長時代には水俣病患者団体の厳しい追及の矢面に立たされた。

 銀杏の観察を始めたのは、昭和48年から54年にかけ、内閣官房首席内閣参事官として首相官邸に通っていた頃だ。環境庁自然保護局長、企画調整局長、環境事務次官を経て57年から内閣官房副長官。

 天皇制をめぐる左右の厳しいイデオロギー対立で金属弾も飛び交うなか、官邸そして宮内庁と、憲法の政教分離と皇室の「伝統」とのぎりぎりの兼ね合いを図りながら大喪や即位儀式を取り仕切った。

 若い頃の沖縄現地調査の時は、出発する直前に役所に訪ねてきた見知らぬ老人に「息子の遺骨を持ち帰ってほしい」と懇願され、過密な日程の合間に東風平(こちんだ)町(現八重瀬町)のサトウキビ畑で汗だくでスコップで掘って回った(遺骨は見つからなかった)。

 首席参事官時代、佐藤栄作元首相の国民葬で三木武夫首相が右翼になぐられた時、小柄な体でとっさに巨漢の首に飛びかかり、取り押さえた。警視庁が要人警護のSP部隊を創設するきっかけとなった事件である。

 官僚の頂点をきわめてから、小学校の同窓会誌などに頼まれて書いた随筆は、故郷信州の自然の美しさと戦争で果てた身近な人たちの思い出が多い。

 藤森はそんな男だった。

 宮内庁長官室の壁には陽明学者安岡正篤から贈られた中国の古典『六然(りくぜん)』の書をかけていた。

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