昭和19(44)年夏に、機関車の整備士として西阜新機関区に配属。山間部では、車両が山を登り切れず脱線事故が頻繁に起こる。

「3日がかりで車両をジャッキで持ち上げ線路に戻す復旧作業は過酷でした。高粱(コーリャン)ばかりのご飯が、現場では白米に変わる。それが楽しみでねえ」(川田さん)

 戦争の敗色が濃くなり、特急や急行の客車の運行本数が減った。走るのは貨物列車ばかり。川田さんが、こう呟く。

「憧れのあじあは、昭和18年の2月にひっそりと運転を中止したそうです」

 満鉄を語るうえで欠かせないのが、女性職員の活躍だ。昭和6(31)年に満鉄社員会雑誌で「満鉄婦人社員の歌」が発表され、同年に満州事変が起こると女性タイピストが各地に派遣された。

 鞍山で生まれ育った山本倭子さん(94)は、昭和12年に、チチハル鉄道局工務部保線課で働き始めた。路線の距離や位置がわかる図面などは重要な情報だった、と倭子さんは語る。

「満州国の理念は、五族協和。中国人や朝鮮人、ロシア人も含む満鉄社員40万のうち日本人は14万人。しかし、重要な情報を扱うのは日本人だけ。関係部署に書類を届けるなど危険を伴うのが嫌で、電話手へ異動を希望しました」

 印象深いのは、満州国とモンゴルの国境地帯で日ソ両軍が衝突した昭和14(39)年5月のノモンハン事件だ。

 激戦が続く7月から2カ月の間、同僚女性とふたりで戦場に近いハイラル電気区で勤務した。関東軍と満鉄の間で、電話がかかるたびにランプが忙しく光る。夜勤明け、ノモンハンの戦場から運ばれてきた負傷兵救護の手伝いに行ったこともある。

「地雷で手や足を失った兵士やぐちゃぐちゃになった顔面にガーゼをかけて横たわる兵士がいました。傷口にうじがわき、それはひどい光景でした」(倭子さん)

 昭和16(41)年に部署内で電話手をまとめる班長に昇進した。別の部署や組織で夜間勤務につく人たちから、よく電話が鳴った。故郷や家族を想う寂しさを紛らわせたり、退屈で話し相手を欲していたのだろう。だが、威張った憲兵がうるさかったある晩には、回線を止めたことがあった。

 もう時効だから──。倭子さんは、そうささやいた。

週刊朝日  2016年6月3日号より抜粋