発車する満州の特急「あじあ」 (c)朝日新聞社
発車する満州の特急「あじあ」 (c)朝日新聞社

 日本の敗戦まで旧満州経営の中核を担った国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)。その元社員や家族らでつくる親睦組織「満鉄会」が3月末で解散した。敗戦翌年に発足、70年の歴史に幕を下ろしたのだ。40万人の社員を擁した「満鉄王国」を、元社員らの証言で振り返る。

 満鉄が開業したのは明治40(1907)年4月。日露戦争の勝利の後、ロシアから中国東北部を走る鉄道を譲り受ける形で発足した。初代総裁は後藤新平。シンクタンクの満鉄調査部を擁し、関連会社には甘粕正彦が理事長を務めた満州映画協会(満映)もあった。敗戦までの40年弱、鉄道経営にとどまらず、経済や行政をも掌握した巨大組織だった。

「満鉄会情報センター」の専務理事として満鉄会を支えてきた天野博之さん(80)は昭和10(35)年、大連市の日赤病院で生まれた。父は大連の満鉄本社総裁室に勤務していた。

「満鉄は、製鉄や製油、窒素肥料の開発に力を入れた時期もありました。撫順に赴任した父は、炭鉱の庶務長になりました」

 満鉄は、上下水道と暖房、水洗便所を完備した近代都市を各地に建設。天野さんが幼少期を過ごした撫順は、警察署や病院に学校、商店街や住宅街が規則的に都市計画され、中央広場から放射状に緑豊かな街並みが広がっていた。

「社宅は街のボイラー場から蒸気を各戸に送るスチーム暖房でした。コーン、コーンという反響音とともに暖房機が温まった。蒸気によって一年中、お風呂には湯が出ました」

 敗戦後の混乱期を生き延びた天野さん一家は昭和21(46)年3月、撫順に戻った。社宅の暖房や水道、ガスや水洗便所は、奇跡的に同じように使えたという。

 東北地方が大凶作に見舞われた昭和9(34)年。娘の身売りや餓死者など暗い世相の日本とは打って変わり、楽園を描いたような満鉄のポスターに、若者たちは大陸を目指した。「漫然渡満」という流行語とともに。

 田伏正七さん(97)は昭和12(37)年春、19歳で満鉄社員の叔父からの誘いで満州に渡った。

「船では、着物姿の私服刑事に『どこへ行くのか』と質問されました。身元引受人のない者は送還されたそうです」(田伏さん)

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