覚せい剤取締法違反の罪に問われている元プロ野球選手、清原和博被告。西武ライオンズ時代に監督として清原被告とともに戦った東尾修氏は、彼の当時の様子や今後について語った。

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 西武時代にチームメート、そして監督と選手という関係だった清原和博被告の初公判が東京地裁であった。法廷での内容が事細かに報じられ、読者の方々もいろんな思いを抱えていることでしょう。

 5月31日に予定される判決が出た後、私もキヨに電話を入れようと思っている。かける言葉があるとすれば、初公判で口にした思い、決意を忘れるなということだね。

 野球人としての「清原和博」だけでなく、薬におぼれた「清原和博」という、「陽」と「陰」をともに背負って生きる人生になる。現役時代のような大声援を受けることはないかもしれない。だが、そのことで孤独を感じる前に、自分の覚悟と向き合ってほしい。そして、信頼してくれる仲間を今度こそ頼ってほしい。

 キヨは野球に対しては本当に純粋な男だったが、心は一定でなかった面もある。バットを本当に大事にする一方で、不振な時に壁を叩くなどモノに八つ当たりすることもあった。

 キヨが西武に入団してから、プロ選手として成功した先に何があるのかを伝えてきたつもりだ。「好きになった女がいたら、グラウンドに連れていって姿を見せることだ」「お前は(内角球の)避け方が下手。余計な挑発はせず我慢することだ」――。

 野球と向き合う中で、社会との付き合い方を身につけてほしいと思っていたが、どこか不器用なところもあったのだろう。1995年オフに移籍の希望を本人から聞いた。「もう1年頑張ろう」と話したが、翌年も満足のいく成績は残せなかった(打率2割5分7厘、31本塁打、84打点)。私も「彼を復活させるには、東京ドームの4万、5万の大観衆しかないな」と本人を送り出したことを覚えている。

 
 キヨは「自分の更生のために野球に向き合うというのは、野球に対して失礼」との内容を語った。もちろん、野球界がすんなり受け入れてくれるという甘い環境でもない。

 ただ、キヨも会員である「日本プロ野球名球会」の理事の立場で言いたい。名球会は門戸を閉ざすことはない。近くに寄り添い、手を差し伸べることはできないが、彼が更生できたと世間に認められたとき、みんなが立ち直ったと思えたときには、彼を迎え入れたい。名球会員のほとんどが同じ意識でいることを忘れないでほしい。理事を務める佐々木主浩が弁護側の証人として法廷に立ち、「(清原は)今でも野球人」と語った。野球人として残した足跡までが否定されるものではない。

 完全に社会から許しをもらうことはできないかもしれない。人間として一生をかけて償うものなのかもしれない。昨年にキヨが行った「お遍路」は八十八カ所の霊場を巡拝し、最後は私の地元、和歌山にある高野山にお参りする。私は、1月11日の福岡・ヤフオクドームで行われた名球会イベントで、彼に「高野山の頂上まで来たら迎えにいくぞ」と声をかけた。

 野球界に恩返しをしてほしいとの思いから出た言葉だった。その3週間後に逮捕され、私の願いは遠のいたかもしれないが、道が閉ざされたわけではない。厳しい更生の道を自分の足で歩き、再び野球界にたどり着くことができたなら、笑顔で迎えにいきたい。信じて待ちたい。

週刊朝日 2016年6月3日号

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東尾修

東尾修

東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝。

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