今考えてみれば、「三浦半島記」にはかなりの悪(ワル)が登場し、謀殺、暗殺の場面が繰り広げられる。この物騒な時代を書くにあたって、二条は彩りを与える役割を果たしたのかもしれない。
こうして2月5日、司馬さんは磯子を出発、鎌倉に入った。しばらく鎌倉市内を車で走り、長谷観音前でわざわざ車を降りて、江ノ島電鉄「長谷」駅から電車に乗った。
トンネルをくぐって長谷駅の隣が「極楽寺」駅である。
この日は午前中に雪が降るほど寒かった。司馬さんは駅に着いてすぐ辺りを見回し、
「GOKURAKU亭」
という喫茶店の看板を見つけた。
「まあ、お茶を飲もうか」
と、街歩きに張り切っていた同行者9人の気合をまず抜いた。
体を温めてからということだったが、そのまま司馬さんはこの喫茶店に1時間ほどもいた。寒さにひるんだのかもしれない。
<坂の頂点にちかいあたりに、店が一軒、山肌に貼りつくようにして建っている。電車のように細長い建物で、店内には古時計やら陶器が置かれており、喫茶店でもある>
店主は代わったが、この店はいまもある。
当時の店主、山岸俊彦さんにも久しぶりに会った。山岸さんは極楽寺のすぐそばで「ギャラリーGOKURAKU亭」を開いている。当時を思い出してくれた。
「お店に入ってきたとき、有名な作家だけど名前が出てこなくて、それから『あ、シバレンさんだ』(笑)。そのあと、司馬さんだとすぐ気づきました。熱心に灰皿とか見てらっしゃいましたね。お帰りになるとき、コーヒーはいかがでしたかと伺うと、『おいしかったですよ』と言ってくださったのが、お世辞でもうれしかったです」
当時の取材ノートには、
「コーヒー旨し」
と書いてあったから、お世辞ではありませんよ。
「その後、司馬先生がお亡くなりになってから、ファンの方によく来ていただきました。同じ席に座ってうれしそうな顔をされる方がたくさんいたのには驚きました」
その喫茶店から鎌倉に向かう道が極楽寺坂である。
コースとしては極楽寺坂を下りて、途中に「鎌倉権五郎神社」、由比ケ浜を経由して若宮大路に出るというもの。1時間は歩いただろうか。司馬さんが歩いた道は新道で、二条の歩いた旧道とは高低がちがう。
<彼女は、坂の上から、市街を見た。袋の中に物を入れたるやうに住まひたる。
簡潔なこのひとことが、十三世紀の鎌倉の市街をよく言いあらわしている>
いまの極楽寺坂からは鎌倉の全景は見えない。すぐ近くの成就院の石段を上りつめたところから、由比ケ浜はよく見えた。二条が見たのはこの高さなのだろうか。
司馬さんは極楽寺坂が気に入ったようだった。
「閑寂さ」がいいという。
<鎌倉の文化はこの閑寂さにあるといってよく、その原型は頼朝をふくめた代々の鎌倉びとがつくったものながら、明治以後、この地の閑寂を賞でてここに住んだひとたちの功といっていい>
最近は観光客がますます増えた鎌倉だが、この辺りまで来ればまだ静けさが残っていた。
※週刊朝日 2016年4月29日号