落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は、「区切り」。

*  *  *

「川上くんはこっから入ってこないでねっ!!」

 小学2年の春。となりの席になったK子から突然言われた。

 1人1台の学習デスクではなく、2人で1台の横ながの古びた木製の机。だいぶ時代がついていて、表面は落書きやコンパスの針で引っ掻いた跡や、穴ぼこだらけだった。

 K子は指で机に線を引いた。油っ手だったのか、かすかに跡が残る。若干K子の陣地のほうが広い気がしたが、押しの強さが怖くて私は黙っていた。

「1回入ってきたら罰金100万円~っ!」

 K子の語尾を伸ばすのが不快感を誘う。ほぼ初対面なのに自分のルールを押しつけてくる傲慢さにイラッときて、私は、

「100万円なんて持ってないし!」

 と返した。

K「じゃあ、働いて払ってください~」

私「じゃあ、K子ちゃんも払ってください~」

K「残念でした~。私は絶対にはみ出したりしません~」

私「世の中に絶対はありません~」

K「私にはあるんです~」

 不毛な口論は担任の栗田先生の「静かにしなさいっ!」で休戦となった。

 境界線を気にしながらの授業が始まった。いかんせん、初期設定が不公平だ。K子の陣地は、横幅が私より5センチは広いではないか。初めに文句を言っておけばよかった。

 
 案の定、私の教科書がはみ出したり、鉛筆の先が飛び込んだり。午前中だけで私には1400万円の負債ができてしまった。K子はまったくはみ出してこない。やはり初期設定を間違えた。

 帰りの会が終わり、K子は机に書いた「正」を数えながら、

「じゃあ、川上くんは私に100万円を25回払うこと~」

 と請求してきた。

「払えないよ」

「一生かけて払ってくださーい」

 私は7歳にして重い十字架を背負わされてしまった。憂鬱に時が過ぎていく。

 翌朝、K子が言った。

「昨日の払わなくていーよ」

 当たり前だ。しかし、幼い私はこの時心底ホッとした。

私「ありがとう」

 なぜ礼を言う?

K「その代わり、川上くんの陣地にある穴をちょうだい!」

 私の机には直径2センチくらいのハート形の穴が開いていた。

「その穴に水ノリを詰めて固めるとハートの塊ができるんだよー。お金払わなくていいから、穴ちょうだい」

「……いいよ!」

 軽はずみに了承したのが大間違いだった。穴は私の陣地の真ん中にある。休み時間に読書していても、K子は「穴、見せて!」と水ノリが固まったかどうかチェックを入れたり、他の女子に自慢したり、又貸ししたり。「穴利権」を使ってK子が教室内で力を持ち始めたのだ。

 結局、休み時間中の私は自分の机を追われて、教室のロッカーの前で過ごすようになった。

「こんな些細な『区切り』が、実は現在の世界における植民地支配からの領土分離・独立問題に繋がっているのではないか?」

 とNHKの「新・映像の世紀」を観て黙考した次第。

 以上、加古隆の「パリは燃えているか」にのせて連載100回目をお送りしました。

週刊朝日 2016年4月29日号

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春風亭一之輔

春風亭一之輔

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/落語家。1978年、千葉県生まれ。得意ネタは初天神、粗忽の釘、笠碁、欠伸指南など。趣味は程をわきまえた飲酒、映画・芝居鑑賞、徒歩による散策、喫茶店めぐり、洗濯。この連載をまとめたエッセー集『いちのすけのまくら』『まくらが来りて笛を吹く』『まくらの森の満開の下』(朝日新聞出版)が絶賛発売中。ぜひ!

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