磯田:歴史や歴史文学を読む行為は魚のアユを食べるのに似ています。アユは調理して、はらわたの苦い部分を取り除いて、誰でも食べられるようにできる。でも、あの苦いワタをどう食べさせるかも一大問題です。司馬さんはわりと食べやすく、きちっと調理してくださる。一方、学術論文は苦いワタばかり。しかし、苦いワタがあるほうが、それは真実に近いんです。

 秋山真之の最期は新興宗教に凝って死んでしまう。念力で病気を治そうとしたりする。司馬さんがどこまでそれを書くかどうかで葛藤する感じも私はわかる。結局、その部分は書かれなかった。あれは戦後の非常に合理主義的な人たちに向けて司馬さんが書いた文学です。いまや司馬文学は司馬さんが書けなかったこと、わざと書かなかったことを見ながら読むという段階にもきてるかなという気もします。

片山:司馬遼太郎は非常に高いところから巨視的に見ることができた。まさに司馬遷に通じる魅力があると思います。普通は高いところから見ようとしてしくじることも多い。ピントを外すんです。なかなか合うものではない。その点、司馬さんは天才的でした。

 東出さんから曲がらない人への憧れというお話が出ました。たしかに司馬文学の基本です。でも織田信長も、河井継之助も、高杉晋作も、土方歳三も、大村益次郎も、坂本龍馬も、みんな途中で死ぬでしょう。私は長く生きていれば彼らも曲がったかなとも思うんですよ。曲がらないうちに死ぬ。そのうつくしさを徹底的に書く。伊藤博文や山県有朋みたいな、長生きして、曲がる人は主人公にならない。司馬遼太郎の描いている世界は若い読者にそう生きたいというロマンをかき立てる。齢(よわい)を重ねた読者はそう生きられなかった悔恨を抱えながら「いいなあ、この人たち」と憧れる。司馬文学は人生で二度おいしい。読み継がれる理由だと思いますね。

磯田:『梟の城』は小説としてよくできていると思いますが、短編では「貂の皮」が素晴らしい。脇坂安治を書いた。小説として完成度の高い作品がたくさんあります。司馬さんがちょっとかわいそうだと思うのは、あまりにも歴史観がおもしろいがために「余談ながら」が多くある作品が読まれる。もう一度、自己完結性が高い司馬小説をたのしみたいという境地になってきています。

東出:坂本龍馬と同時代の山岡鉄舟のように絶対に曲げないものがあると厄介です。でも、それがあるからうつくしい。それがないとどんどん汚辱にまみれてしまう。年を重ねて読み直すと、こういうふうに生きていた人もいたんだなと、後悔の念を抱かれるというお話もありました。僕もそうなっていくのかなと思うんですけど、司馬先生はそうした憧れる人物を多く書かれていると思います。

※週刊朝日 2016年4月1日号より抜粋