家康が豊臣恩顧の大名たちに大封を与えて処遇したのは、関ケ原の戦いというか豊臣秀吉が亡くなるまでの間に、彼らとの間に友情が芽生えていたからであろう。細川幽斎も浅野長政も黒田如水も島津義弘も、家康としては共感できる、同格の人物たちだった。

 ただし、そのような感傷だけでは家康は動かない。これは子孫として、血が私に教えているわけではない。政治家というのは、そういうものだという事実を記しているだけである。家康が大名たちを厚遇し、その力を温存したのは、豊臣秀吉という怪物を間近に見て、さらにいえば、織田信長という、秀吉がその手法を真似た一人の天才を間近に見て、独裁者の危うさをよく理解していたからだろう。

 徳川の天下を、そして徳川の平和を長続きさせるには、物事が容易には将軍の思い通りにいかないほうがよい。これが幕藩体制の根っこにある考え方である。

 武家諸法度にしても、大名たちが遵守するのが難しい法制ではない。また、徳川家臣団を無数の中小大名に分けて、指揮系統をわざわざ複雑にしているのも、豊臣恩顧の大名たちを安心させるためだった。

 では、大名たちが取り潰されることをいつも恐れていたという、幕藩体制を語る際の決まり文句は、いったい何なのだろう?

 それは、将軍・幕府と各大名家の間に緊張関係があると思わせておいたほうが、各大名による家臣団の掌握が楽だったから、と考えるとわかりやすい。

 戦時体制が完全に終わったわけではないという緊張感が武士の統制を強化し、そのことが平和の維持を容易にしたという逆説である。

週刊朝日 2016年2月26日号