若宮八幡宮から歩いて7、8分のところには日出城本丸跡があります。海に面して立っていた3層の天守は明治時代初めの廃城令で取り壊されてしまいましたが、残っている石垣だけでもかなり立派。3万石の小藩でよくここまで造ることができたなと驚かされます。

 延俊が日出藩に入ったのは1601年。すぐに幕府の許可をもらって築城に取りかかります。ここで大きな助けとなったのは、義兄の細川忠興(ただおき)でした。忠興が自ら設計と現場監督をして、石垣は忠興の家臣の穴生理右衛門(あのうりえもん)が築きました。理右衛門は、安土城や江戸城の石垣を手がけた石工の穴生衆(あのうしゅう)の一門です。築城開始から1年後には、おおむね完成していたというから、よほどの突貫工事だったはず。妹婿のためにともろ肌を脱いだ忠興の姿が目に浮かぶようです。

 日出城は別名を「暘谷(ようこく)城」といいます。一説では、3代・俊長が中国の古典「淮南子(えなんじ)」の一節「日は暘谷より出でて咸池(かんち)に浴す(日出於暘谷 浴于咸池)」から引用して名づけたそうです。「暘谷」という言葉は、あまり目にしない言葉ですが、日出町では町の中心部にある駅名にもなっています。

 日出城は木下家の居城でしたが、現代の日出町に木下家の家はありません。ただ、30年ほど前、当時の日出町長に「日出の殿さまの本籍が日出町にないのはよろしくない。移しましょう」と提案されたことがありました。考えがあるからとにかく任せてくれ、とも言う。しばらくすると、新しい本籍地を知らせてきました。日出町2610‐1。どこかと思ったら、なんと日出城の天守があった場所。参りました。

週刊朝日  2016年2月5日号