このとき元親は「裏切った覚養は許せぬが、上野介に罪はない」として、上野介を殺さずに、国元に送り返す。

 その結果、上野介がこの元親の措置に感激して、阿波侵攻の先陣をかって出る。白地城はこれで陥落した。

 戦国時代は、信長が裏切った浅井長政、久政を切腹に追い込み、長政の嫡子である10歳の万福丸を捜し出して磔(はりつけ)にする、といった残虐な話が伝わっている。

 しかし、元親の戦い方は違っている。

 攻めた相手についても、最後には無理に攻め上げず、逃げ道を作っている。降伏した本山の継嗣も助けている。そんな戦い方なので、元親は十河存保など同じ敵将と何度も闘う羽目に陥っている。

 江戸時代の讃岐の儒学者、中山城山が編纂した『全讃志』には「元親は乱暴で狡いところもあるが人を愛して厚く広い心を持っている」と評している。

 元親のことを吉田孝世の『土佐物語』は、いつも屋敷の中にこもっていて「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていた、と書いているが、元親はやはり、天文年間に生まれた信長、秀吉、家康らの武将の中では一色違って、温和で優しいところがあったと思う。

 長宗我部家の家訓でも「勝負は鞘のなかにあり」とあって、剣を抜かずにまず知略で勝負することを、教えている。

 それもあってか、元親が一條氏を破って土佐の統一ができたのは天正3(1575)年で、元親37歳のときであった。15年の月日がかかっている。

週刊朝日  2015年12月18日号