元JR東海社長(現・相談役)須田寛すだ・ひろし/1931年、京都生まれ。54年に京都大学法学部卒業、日本国有鉄道入社。名古屋鉄道管理局長、旅客局長、国鉄理事などを経て、87年4月、JR東海社長。95年、会長に就任した(撮影/写真部・堀内慶太郎)
元JR東海社長(現・相談役)
須田寛

すだ・ひろし/1931年、京都生まれ。54年に京都大学法学部卒業、日本国有鉄道入社。名古屋鉄道管理局長、旅客局長、国鉄理事などを経て、87年4月、JR東海社長。95年、会長に就任した(撮影/写真部・堀内慶太郎)

 鉄道の戦後のシンボルは新幹線。たび重なる進化は、速度や新路線などに目が行きがちだが、その真骨頂は日本人らしい、緻密な改善の蓄積にある。JR東海初代社長・須田寛さん(84)が、証言する。

*  *  *
 運行システムの進化についてお話をしていきましょう。

 東海道新幹線開業時には自由席がなく、すべて指定席だったことをご存じでしょうか。自由席ができたのは、ある問題を解決するためでした。昭和39(1964)年の開業直後、オリンピックが開幕するより前の土曜の昼頃に、国鉄本社の旅客局で会議をしていたら、ある課長が飛び込んできたんです。

「大変だ。東京駅の新幹線切符売り場が大騒ぎになっている。担当者はすぐ見に行ってくれ」

 私は関係者ではなかったけれど、一緒に行きました。当時、土曜日は半ドンで、仕事後に伊豆や熱海の温泉に向かうお客様の多くが、「珍しいから」といって新幹線に流れてきたのです。切符売り場は大行列で、列がほとんど動いていません。職員はお客様に囲まれ、怒号が飛んでいましたね。騒動とまではいかず、警察を呼ぶ状況ではありませんでしたが。

 新幹線は1日60本走っていました。特急が1日片道10本ずつぐらいしか出ていなかった当時では、相当多い本数です。定員も多く、いつでも乗れますと宣伝していました。それでお客様は予約せず乗車直前にいらっしゃるが、すぐには乗れないのです。様子を見ていたら、不思議なことに気づきました。売り場が混んでいても1本ずつの列車に満員表示が出るものは少なく、多くは余席を残し発車していたのです。

 なぜか。座席の台帳を確認して、職員がペンで切符に手書きして売るので、時間がかかり過ぎていたのです。列車の座席は十分あっても、販売処理能力に問題があったわけですね。

 その日の午後、緊急会議が開かれました。

「本社はどう責任を取るんですか!」

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