週刊朝日2015年12月11日号
週刊朝日2015年12月11日号

 日本映画の黄金期を象徴する名優、原節子さんが亡くなった。昭和の銀幕を彩った大スターの歩んだ道は、光と影が織り成すミステリアスな香りに満ちている。

 1935年に15歳でデビューした原さんは翌年、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢され10代で国民的スターに。だが、その人気と裏腹に、演技にはしばらく「大根女優」のレッテルを貼られた。『原節子 あるがままに生きて』(朝日文庫)の著者で映画評論家の貴田庄さんが解説する。

「原は教員志望だったが、家庭の経済事情などで学校を中退し、映画界に飛び込んだ。演技に関しては素人のまま『国際的スター』と持ち上げられ、年齢や経験と釣り合わない役を演じねばならなかった。この時期は作品にも恵まれず、酷評につながったんでしょう」

 だが、転機は訪れる。才能が花開いたのは、映画産業が急成長した戦後だ。黒澤明監督の「わが青春に悔なし」(46年)、吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」(47年)など、これまでにない作品に出演するようになってからという。20代後半を迎えていた。

「上品な役ばかりだった原が『わが青春~』では農家の妻として泥まみれで働く女性を体当たりで演じた。黒澤監督に『こんなことができないのか』と怒鳴られますが、このころから役者という仕事に前向きに取り組むようになり、演技も安定してきます」(貴田さん)

 49年には「晩春」のヒロインとして小津安二郎監督作品に初めて起用され、以後、小津の下で「麦秋」(51年)、「東京物語」(53年)などの代表作が生まれていく。映画評論家の佐藤忠男さんはこう語る。

「『晩春』で原が板張りの床に手をついて挨拶するしぐさは、何とも言えぬ品があった。兵隊や芸者はどんな役者にでもできるが、あれだけ所作の美しい女優は他にいない。だから松竹の小津が、わざわざ東宝にいた原を起用したのでしょう」

 二人の最強タッグは、原さんを名実ともに「大スター」にした。小津監督の撮影助手を務めた撮影監督の川又昂さん(89)が当時の撮影を振り返る。

次のページ