そして、元親の後を継いだ盛親は、関ケ原の戦いで石田三成側につき、敗れ、徳川家康に土佐をすべて召し上げられた。だが、大名家復活、そして秦氏の誇りのためにも大坂の陣に夢を賭けたのである。

 真田幸村(信繁)、毛利勝永らとともに、大坂城に入って再び家康と対峙する。しかし、敗れて京の六条河原で斬首された。

 家を繋いでゆくということは難しい。

 だが、それがいかに困難であろうとも、家系を続けることを思い、盛親の死後も、長宗我部家の後に土佐に入封した山内家に、馬にも乗れない徒士として仕えながらも家を繋いでいった長宗我部家の当主らもいたのである。

 徳川政権下、長く厳しい忍従の日々であったであろう。

 そして、長宗我部の系譜を護(まも)り抜いた当家の12代與助重親が明治に至り秦一族を祀る秦神社の創建を図る。

 そうした先祖のことなどを思い起こすこのごろだが、謝るにしても、もう私の母親はこの世にはいない。

ちょうそがべ・ともちか 1942年、高知市生まれ。盛親亡き後、本流が絶えたため、祖父・親(ちかし。秦霊華)が長宗我部家の末裔、元親公孫として昭和天皇の勅使から元親の正三位への贈位書を29年に受け取る。早稲田大学卒。共同通信社経済部長などを経て、2002年常務監事、04年退任。著書に『長宗我部』(文春文庫)などがある。

週刊朝日  2015年12月4日号