浦戸の街は、昔のままの城下の面影をいまだに残している。浦戸大橋ができたので、観光客はそちらのルートを通るから、この城下町は素通りしていく。

 若いころ、私はここは長宗我部の所縁(ゆかり)の地であるのに、どうして坂本龍馬像など龍馬に関するものばかりが多いのだろう、といささか不満に思っていた。

 だが、いろいろ調べていくうちに、龍馬と長宗我部は不思議なほど多くの関わりを持っていることが分かってきた。

 高知市上町の「坂本龍馬生誕の地」との石碑が立っているすぐ裏手で私は生まれている。龍馬は1835年の生まれだから、私が100年ちょっと早く生まれていれば、隣同士できっと龍馬と顔を合わせていたと思う。

 当家の12代與助重親は、土佐藩の大砲の鋳造に関わっているが、坂本龍馬の砲術の師匠の徳弘孝蔵は重親の師匠でもある。龍馬の手紙にも重親は登場する。

 また、龍馬が学び、大政奉還の考え方にも影響を与えた海南朱子学(南学)は「天皇親政」と実際の行動を重んじる実践論を教えているが、これは元親が郭中で家臣に学ばせ、長宗我部の土佐統一の際の後押しをした理論でもある。元親と龍馬は繋(つな)がっている。

週刊朝日  2015年11月27日号