「私は戦争の否定者」ゴジラ主演の宝田明が“反戦”叫ぶ理由 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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「私は戦争の否定者」ゴジラ主演の宝田明が“反戦”叫ぶ理由

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『ゴジラ』とともに歩んだ芸能生活をへて、反戦への思いはより強くなっている(※イメージ)

『ゴジラ』とともに歩んだ芸能生活をへて、反戦への思いはより強くなっている(※イメージ)

 幼少期を旧満州で過ごし、戦争の悲惨さを体験した宝田明さん(81)。戦争に翻弄されたがゆえ、家族との離別と再会は深く心に刻まれた。『ゴジラ』とともに歩んだ芸能生活をへて、反戦への思いはより強くなっている。

――ソ連軍の支配下となったハルビンで宝田さんは、戦争がもたらす悲惨や苦難を実体験した。近所の婦人がソ連兵に陵辱される現場に憲兵を連れて駆けつけたこともある。抑留列車に長兄を捜しに行き、右腹部に銃弾を受け、生死の間をさまよう経験もした。略奪目的で家に押し入ったソ連兵に、頬に銃口を突きつけられるという恐怖も味わった。

 もっとも悲しかったのは、やはり三兄との別れと再会です。兄は使役の場から拉致されて兵舎の炊事や洗濯を命じられ、1年以上も働かされたそうです。解放されて満鉄の大きな社宅に戻ったら、社宅はもぬけの殻でゴーストタウンみたいだったと。それから線路伝いに南へ南へと歩き、中国人の農家でロバの代わりに臼で穀物を碾(ひ)いて一宿一飯。2千キロ以上を歩いて、密航船を雇って日本にたどり着いたんです。

 兄は新潟で職を得ましたが、わずか2、3日で職場の人間を殴りつけて帰り、忽然と私たちの前から姿を消しました。合わなかったんでしょう。中学生で満州から日本まで一人で歩いて帰ってきた兄には、通常人の感覚が合うはずがありません。

 私自身もそうでした。日本上陸時にもらった軍靴と飛行帽で学校に通っていたら、ついた仇名が「大陸」(笑)。多民族の中で育ち、広大な土地で過ごしてきた身には、旧態依然たる田舎の空気と波長が合わないんです。身なりも気にせず悠揚としていたので「大陸」となったのでしょう。

 新潟で2年ほど過ごして上京しました。進学した豊島高校で演劇部に入り脚本、演出などやってましてね。そんな折に東宝ニューフェイス募集の話を聞いて応募、28(53)年に東宝の第6期ニューフェイスに採用されました。デビュー作は『かくて自由の鐘は鳴る』(熊谷久虎監督)。福沢諭吉の伝記映画で下級武士の役でした。そして3本目に主役が舞い込んできて、それが『ゴジラ』(本多猪四郎監督)。撮影所で「主役をさせていただきます」と挨拶したら「バカ野郎! 主役はゴジラだ」とやられちゃいましたがね(笑)。

 昭和29(54)年は、第五福竜丸がビキニ環礁で被爆した年です。広島、長崎に続く被爆で、日本だけが核の恐怖を世界に向けて発信できる唯一の国だと。ゴジラなる架空の動物を使って核の恐怖を訴える映画だと、撮影所の意気は盛んでした。

 私は完成試写を見て、涙をわんわん流しました。平和な海に眠っていたゴジラが、被爆して放射能を吐く体質となり、最後は人類の化学兵器によって白骨化し、海の藻屑と消えていく。彼への同情を禁じえなくてね。当時の日本の人口8800万人のうち961万人がゴジラを見ました。実に国民の11%。その多くの人たちが私同様にゴジラに同情したのではないでしょうか。


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