しかし、藩政においてその美は「格」や「威厳」を示すものとして用いられてきたのではなかろうか。おそらく人心を掌握するためには、身の回りにまで気を配る必要があったのだと考えている。また文化財を扱うのは大変気を使うものである。絵画は傷み、文書は虫が食い、刀剣は錆びる。私が聞いた話では、真田家では家中の者が陶磁器を扱う際には、必ず胸に抱いて運び、万が一転んだ場合には手をつくなと言われたそうである。

 手をつかずに顔から落ちてたとえ骨折しても、ケガは時間が経てばいつかは治る。しかし割れた陶磁器は元に戻らないからである。代々受け継いできた文化財は、このような人々の努力の証しとして今に残っているのであり、とてもそれを貨幣価値で評価する気にはならない。

 また石田三成の書状は徳川方についた真田家にとっては大変都合の悪いものであり、政治が安定した江戸時代であっても、見つかれば謀反の証しとして改易の材料にされかねない資料である。そのため他家では多くは処分されたと専門家に伺ったが、そのようなものも大切に残しているのは、ある意味、松代藩の立ち位置を象徴するものであろう。

 実は文化財寄贈とほぼ同じ時期に生まれたものがもう一つある。「真田会」である。

 この会の趣旨は、真田家の松代への貢献を称え、真田家と懇親を深めるためのものである、と趣意書に明記されている。今では会員の方々は、私も含めて息子たちまで温かく見守ってくださり、何かとサポートしてくださっている。会員の交流を通して、新しい文化活動も行われている。年に一度、お盆の時期に研修会および総会が開催され、今年は藩祖信之が神として祀(まつ)られている大鋒寺を見学した。

 信之の墓のとなりには家臣鈴木右近の墓が建てられている。鈴木右近は信之の没後、幕府に願い出て殉死した。真田家の宝といえば松代の方々との繋がりだと、その光景は私に諭しているように見えた。

週刊朝日  2015年10月23日号