しかもその墓が織田信長の次女、冬姫の墓のすぐ背後、墓石と墓石が背中合わせになるような位置にある。これには何か意味があるのだろうか。しかし2人の生きた年代を調べてみると重ならない。冬姫が亡くなったのは寛永18(1641)年、信休が生まれたのはその37年後の延宝6(1678)年だ。もしかすると大和松山藩の織田家と冬姫になんらかの交流があったのかもしれない。

 こんなことがあって私は冬姫について初めて詳しく知った。この人は絶世の美女だったらしい(信長の血族というのはなぜか美女が多い)。冬姫という名前もすてきである。美人でかつ凛々しい感じがする。信長は自分の子供には、へんてこな幼名を付ける癖がある。長男は奇妙丸(きみょうまる)、次男は茶筅(ちゃせん)、三男は三七(さんしち)って、一体どういうセンスなんだろう? しかし、娘にはさすがにそういうことはしなかったのでやれやれである。

 冬姫は若くして夫の蒲生氏郷を病で失った後、言い寄ってきた秀吉を袖にして尼になったという逸話のある人である。だから冬姫の墓に行くときは、私は美人で若く、はっきりとものを言う叔母か何かに会いに行く気分になる(冬姫は81歳まで生き、天寿をまっとうしたのだが)。

 こうしてときたま知恩寺にもお参りするようになって以後、『冬姫』(葉室麟)という連作小説が出た。これは歴史小説というより、歴史に題材を取ったサスペンス小説なのだが、冬姫は私が抱いていたイメージにぴったりで楽しく読めた。誰かドラマにしてくれないものだろうか。冬姫には隠れたファンがいるようで、墓にきれいな花が手向けられていたことがある。この場所をよく知っているなあと驚いたのを覚えている。

週刊朝日  2015年8月28日号