信秀の葬儀の席で、信長が位牌に抹香を投げつけたという逸話はよく知られているが、この話の舞台は名古屋の大須にある萬松寺である。現在の萬松寺は商店街の近くという庶民的な場所にあり、寺自体も観光スポット的な派手さがある。

 一方、黄梅院はどこまでも静謐(せいひつ)な美しい空間である。禅寺としては日本最古の庫裏(くり)、水墨画の襖絵(ふすまえ[いずれも重要文化財])、千利休が設計した庭などがあり、寺というより、芸術品のようである。私が黄梅院につい足を向けるのも、先祖の縁と関係なく、その美しい佇(たたず)まいが好きだからだ。

 もともと「黄梅庵」と呼ばれていた小庵を、この美しい黄梅院に発展させた功労者は改築の普請奉行を務めた小早川隆景だと思う。そのため敷地内には、小早川隆景の墓、そのつながりからなのか毛利家の墓があることを示す石碑がある。また何のつながりかわからないのだが、蒲生氏郷の墓を示す石碑もある(これらの墓地は非公開のようだ)。

 蒲生氏郷はその資質を信長に認められて、次女の冬姫を娶(めと)った若き武将である。若き信長が斎藤道三にその資質を評価され、娘の濃姫をもらったように、信長は氏郷の資質を見抜いたらしい。だが氏郷が才能を発揮できた期間は長くはなかった。わずか40歳で病で世を去ったからだ。

 そんなわけで、現在の黄梅院には、信長を認めた実父と、信長が認めた婿が共に祀られている。遺された冬姫は息子の蒲生秀行とともに会津藩、さらに孫の蒲生忠知とともに伊予松山藩へと転々とする。しかし秀行も忠知も若くして他界し(蒲生家は短命の家系だったのかもしれない)、冬姫は京都に戻って余生を送った。冬姫の墓は京都の知恩寺にある。

週刊朝日  2015年8月21日号