信長の父と次女、冬姫の夫の墓の由来とは(※イメージ)
信長の父と次女、冬姫の夫の墓の由来とは(※イメージ)

 戦国時代に旋風を巻き起こした織田信長は、天下統一の直前に明智光秀の謀反によって討ち取られた。信長の子孫である織田家18代当主の織田信孝さんは、先祖の墓についてこう語る。

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 京都の大徳寺の塔頭(たっちゅう)、黄梅院(おうばいいん)も信長と縁がある。

 ここは織田信長が初めて上洛したとき、父、信秀の追善菩提(ぼだい)のために作った黄梅庵が元になっている。信長が「本能寺の変」でたおれると、秀吉は密葬を行い、当初はこの庵に信長を祀(まつ)った。その後、庵では小さ過ぎるという理由で、あらためて総見院を建立し、ここに祀った。私は総見院に行く折、なるべく黄梅院にも足を運ぶようにしている。

 信長は中世の秩序の破壊者であると言われるように、その行動は世間から見れば、非常識だった。しかし信長と父との仲は良好だったようだ。その点は息子の義龍に殺された斎藤道三、父の信虎を追放した武田信玄などよりも幸福だったかもしれない。

 もちろん戦国時代のことだから、信長も弟の信行をはじめ、たくさんの同族を滅ぼしているのだが、父とは敵対していない。父自身が同族を滅ぼしながら成り上がった実力者で、信長はこの人の資質をかなり受け継いでいたのではないだろうか。似た者同士というのは衝突することもあるが、肝胆相照らす場合もある。事実、信秀は、むちゃくちゃな振る舞いをしていた若き信長を認め、後継ぎとすることをためらわなかった。信長も父を信頼していたのだろう。わざわざ京都の大徳寺に亡父のための寺を作ったところに信長のそういう思いが感じられる。

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