週刊 新発見!日本の歴史 1号(創刊号)
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 戦国武将の不動の人気ナンバー1といえば、やはり織田信長だ。「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば」(敦盛)と好んで謡った信長が本能寺の変に倒れてから433年。その子孫である織田家18代当主の織田信孝さんが先祖ゆかりの地を旅した。

 信長の墓がある岐阜の崇福(そうふく)寺は600年以上の歴史を持つ名刹だ。現住職の東海康道師は22世(代)に当たる。「岐阜の生まれ育ちですから、織田信長公には、憧れのようなものもありました。特にその果断なところは非常に魅力に感じていました。しかし自分が信長公と縁のある寺の住職になるとは想像もしませんでした」と語る。

 崇福寺と信長については、「信長の側室、吉乃(きつの)が亡くなったとき、長男の信忠が、この寺を(実母である)吉乃の位牌所にしてほしいと頼んだ古文書が残っています。本能寺の変で信長、信忠が亡くなったときは、安土城にいた側室のお鍋の方が崇福寺に逃れてきて、二人を弔う墓所としたようです」。その後、京都で行われた信長の葬儀のときの位牌も持ち込まれた。

 崇福寺には、お鍋の方が本能寺の変のわずか4日後に書いた書状が保管されている。内容は、崇福寺が放火や略奪をされないように、と願ったもの。危急のときにもかかわらず、女性らしい美しいかな文字で、人柄を感じさせる。実際、お鍋の方は文芸に造詣が深かったと言われ、かなりの教養人だったようだ。ちなみに、お鍋の方は武将に嫁いでいたが夫が戦死、未亡人となっていたが信長に見そめられて側室となった。吉乃と同じ身の上である。信長はどうもそういう女性に引かれるところがある。

 この寺にはこの他にも史料が数多くあり、一部が展示されている。信長に関係するものでは、肖像画、書、信長の息子たちの書状や禁制(禁止のお触れ)などだ。その中に、信長から次男、信雄(のぶかつ)あての書状もあった。住職が「ご子孫にはちょっと申し訳ないのですが」と苦笑いしつつ、内容を教えてくれた(私の家は信雄からの直系だからである)。

「信雄への叱責です。戦に負け、しかも優れた武将を死なせたことを問いただしたものです」。信雄は天正7年、信長に無断で伊賀を攻め、大敗した。しかも主力武将の一人、柘植三郎左衛門を討ち死にさせてしまった。これを叱った手紙で、信長、怒り心頭、という文面。いやはや、こんなところでご先祖の失態を再確認するとは情けないやら、びっくりするやらである。しっかりしてくださいよ、信雄公!と言いたいが、もちろん歴史は変えられない。

週刊朝日 2015年8月7日号より抜粋