「こちらに来て撮った写真同封しました。


 母に渡してください。
 では元気で征きます」

 母のぬいさんは、息子を亡くしても、泣き言も恨み言も口にしなかった。ただ、終戦後は善光寺や鞍馬山など方々の寺社にお詣りに行っていた、と幸義氏は言う。

 長良治雄(二塁手)は、卒業後、慶應大学に進学。セカンドとして活躍、大学野球のベストナインに選出された。しかし終戦間近の昭和20年5月、沖縄へ向かう輸送船を攻撃され沈没。無念の最期を遂げている。

 加藤義男(三塁手)は卒業後、南満州鉄道に入社。野球部に所属し、サードとして活躍するも、昭和17年ビルマのラングーンにて、移動中の事故で亡くなった。
「若く壮健な者は国のために身を捧げる、そういう時代だったんです。でも清さんたちが生きて帰って、また野球をしていたら、日本の野球は変わったのではないか、と」(幸義氏)

 戦時中、ろくに野球のできない環境にありながら、バットやボールを防空壕や納屋に保管して守ったという話は多い。早稲田の相田暢一マネージャーも空襲のさなか、ボールを防空壕に運び込んだ。戦争が終わったら、必ず選手達が戻ってくる──その一念で用具を避難させたのである。

 けれど彼の思いも虚しく、類い希な野球センスを持った選手の多くが、戦場に散った。二度と再び、バットやボールを握ることすらできなかったのだ。

木内昇(きうち・のぼり)
直木賞作家。1967年生まれ。野球通で、昨夏は甲子園観戦記を本誌に連載。代表作に『漂砂のうたう』『櫛挽道守』

週刊朝日  2015年7月31日号