戦地に散った球児たち(2)<作家・木内昇> (2/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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戦地に散った球児たち(2)<作家・木内昇>

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木内昇週刊朝日#2015夏の甲子園
第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 

第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 

岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 

岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 

 明治大学に在籍した加藤三郎も、志願兵として茨城の土浦海軍航空隊に入営した。家族には相談せず、一存で決めたらしい。報告に驚いて土浦に駆けつけた両親に「どうせ出征しなければいけないのだから」と彼はサバサバ告げたという。

 加藤は、昭和20(1945)年、米軍の沖縄上陸を前に特攻作戦が開始されると、神風特攻隊第一正統隊員として百里ケ原から出撃した。

 加藤のふたりの兄弟とものちにプロ野球・近鉄パールスで活躍したことを思えば、彼が生還すれば同じく野球界に功績を残したろうと、惜しまれてならない。

■特攻直前の遺書「元気で征きます」

 神風特攻隊草薙隊に所属していた近藤清も加藤に続いて、九州第二国分基地から飛び立った。直前、笠原和夫に走り書きの手紙を出した。

「笠原さん、お先に行きます。実は笠原さんと相田と3人で突っこみたかったのですが、隊が違うのでどうしようもありませんでした。一足先に行きますが、どうかあとから続いてください。待っています」

 その以前、姉にも手紙を書き送った。

「姉上様
 加藤三郎少尉はじめ諸先輩方に続ける日が近くに参りました。
 闘志満々その好機を待って居ります。
 こちらに来て早速出撃の筈でしたが、不覚や今日まで生き延びて了いました。
 永い間随分可愛がって戴いて本当に感謝して居ります」

 野球一筋できた人物だが、学業にも手を抜かなかった。幸義氏宅で見せていただいた近藤の岐阜商時代の成績表はすべて「甲」。いわゆる「オール5」だ。読書も好きで、方丈記など古典の書物には、細かな注釈を書き付けていたという。

「清さんが密かに書いていた短編小説が、亡くなったあとに出てきたんです。読んでみて、文章の美しさに驚きました」(幸義氏)

 遺書はこう結ばれている。


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