第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 @@写禁
第22回大会(1936年)に出場した岐阜商の選手たち。右端が加藤三郎、隣が松井栄造 (c)朝日新聞社 @@写禁
岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 @@写禁
岐阜商選手たちの優勝記念寄せ書き。右下の主将・松井栄造投手のほか、加藤三郎、近藤清らの名前も読み取れる (c)朝日新聞社 @@写禁

 今年、100年を迎える高校野球。この間、第2次世界大戦に召集され命を落とした名選手も多い。第22回大会を沸かせた岐阜商ナインも、松井栄造投手(1918~43)、加藤三郎捕手(19~45)、近藤清遊撃手(20~45)ら5人が戦地に散った。作家木内昇氏が彼らを追う。

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■優勝したナイン 5人が戦争死

 しかしより高みを目指して練習に励んでいた彼らの上にも、戦雲は垂れこめる。昭和16(1941)年、翌年3月に卒業予定の大学生の繰り上げ卒業がはじまったのだ。兵力不足のために学生をも召集した学徒出陣である。

 4年生だった松井をはじめ早稲田野球部も多くの主力選手が抜けた。低学年ゆえ残留した近藤は、野球部主将だった笠原和夫、マネージャーの相田暢一に、己の懊悩を打ち明ける。自分も学校を辞め、兵隊に志願すべきではないか、と。

 このときは早稲田野球部初代監督の飛田穂洲の取りなしで学校に残り、18年に特例で行われた出陣学徒壮行早慶戦にも出場した。

 しかしこの試合が、近藤にとって人生最後の野球になってしまったのだ。

 第22回大会優勝の岐阜商ナインのうち、実に5人が戦争で命を落としている。

 松井栄造は、繰り上げ卒業後、豊橋の陸軍予備士官学校へ入校。戦地に向かう直前、早稲田の合宿所を訪れた。その時の様子を、笠原和夫が戦後記している。

「『久しぶりですね』と声を掛けると、靴をきれいに脱ぎ、食堂に入って来られた」「わずかな時間だったが、あの人なつっこい、端正な顔をほころばせながら話す表情が印象的だった」

 幸義氏は、後年知り合った松井の実兄から、彼の生真面目な性格を聞いている。

「どこへ行くにも、事前に地図をきちんと調べて計画するような、用意周到で几帳面な人だったようです」

 打撃や投球フォームの美しさのみならず、彼の生き方もまた、無駄なく律されていたのだろう。後輩達の面倒見もよく、大学進学後もチームメートを気に掛け、励ます手紙をこまめに書いた。尾崎一雄を愛読し、音楽を好んだ一面もあった。

 静岡第34聯隊に配属となった松井は、早稲田を訪ねてから間もなく、中国湖北省へ進軍。目の前で爆発した敵の手榴弾の破片が鉄兜を突き破り、命を落とした。24歳の若さだった。

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