1975年12月、皇居、二重橋を散策する昭和天皇と香淳皇后 (c)朝日新聞社 @@写禁
1975年12月、皇居、二重橋を散策する昭和天皇と香淳皇后 (c)朝日新聞社 @@写禁

 昭和天皇崩御のとき、そして皇太子さまや雅子さまについて、ときどき、皇室について筆を執った作家の司馬遼太郎さん。司馬さんはかなり以前から皇室と“縁”があった。

 会津藩主松平容保を描いた「王城の護衛者」を書いたとき(1965年)、多くの会津人から感謝の言葉が届いたが、そのなかに容保の孫である松平家当主、さらには秩父宮妃殿下がいた。「王城の護衛者」の単行本のあとがきに書いている。

<右の御当主は、おなじくこの作品の主人公からいえば孫にあたる秩父宮妃殿下から「すぐお礼のお電話をするように」と、そういわれたということを電話のなかで申しのべられた>

 幕末の動乱に巻き込まれた祖父容保について、公平な視点から書いていると考えられたようだ。

 さらにそれ以前、まだ新聞記者時代の1951(昭和26)年、司馬さん(福田定一記者)は昭和天皇のそばに立つ機会があった。

 11月、昭和天皇は京都巡幸で、京都府水産試験場を訪ねた。司馬さんは取材記者の一人として、水産試験場にいた。そのときの様子を、司馬さんは72年のエッセー「権力の神聖装飾」に書いている。

<天皇は背をまげ、陳列ケースに度のつよい近視のめがねを近づけて説明にうなずいておられた>

 記憶の中にある昭和天皇のたたずまいがよみがえってくる。説明しているのは、この前年から7期にわたって府知事となった蜷川虎三さんだった。経済学者で、『水産経済学』という著書もある。

 この時代、取材記者もかなり接近できた。司馬さんは昭和天皇の間近にいたという。

<私は元来ボンヤリしている人間だから、なにかほかのことでも考えて天皇に注意をはらわなかったのかもしれない>

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