写真は生前の米朝さん。昨年、元OSK(大阪松竹歌劇団)出身の絹子夫人が亡くなった。3人の息子の長男は、落語家の五代目桂米団治さん (c)朝日新聞社 @@写禁
写真は生前の米朝さん。昨年、元OSK(大阪松竹歌劇団)出身の絹子夫人が亡くなった。3人の息子の長男は、落語家の五代目桂米団治さん (c)朝日新聞社 @@写禁

 落語家で初めて文化勲章を受章した人間国宝の桂米朝さんが、3月19日、肺炎のため亡くなった。享年89。命が尽きる瞬間まで噺家を貫いた上方落語復権の立役者の生涯を、縁の人たちに語ってもらった。

 三代目桂春団治、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝とともに「四天王」と呼ばれ、上方落語復活に尽力した米朝さんと、雑誌「上方芸能」発行人の木津川計さん(79)は、創刊した68年の、秋が初対面だった。

「当時10ページほどの粗末な小冊子を、俳句の会『東京やなぎ句会』に行くたびに永六輔さんや小沢昭一さんらに『大阪にこんな雑誌ができたんや』と嬉しそうに宣伝してくれていました」

 70年代前半、米朝さんが大阪で開いた独演会に6日間で1万人が集まり、落語人気に火がついた。だが「上方芸能」は赤字。木津川さんが廃刊の意図を伝えると、「大切な雑誌やからやめてもろうては困る。できることがあれば応援するから頑張ってくれ」と諭された。言葉どおり、米朝さんは78年1月から23年間、無料で連載を書いた。

「1回20枚くらいですから、千枚を超えます。原稿料1枚1万円として1千万円を超える応援をしてくれた」(木津川さん)

 さらに米朝さんの品のいい大阪弁を懐かしむ。

「船場の旦さんたちやごりょうさん(若奥さん)たちが使う言葉で語っていた。師匠が誰もおらんなか、演目自体が少なかった上方落語を復興させようと、古い落語をどんどん掘り起こし、資産を増やしたんです」(同)

 知識が豊富で著書も多い、学究肌。強引に笑いをとるわけでなく、自分の芸を冷静に見つめる。40年来のつきあいだった落語作家の小佐田定雄さん(63)が言う。

「古典といわれる作品は師匠がかなり手を入れ、時代に合うように作り変えた。話の展開ががらっと変わったものも仰山あります」

 しかし、その素顔は親切で世話焼き、もっと言えばおせっかいだったともいう。

「お酒の席で杯が空になったままになってたら、すぐについでくれ、『はよ飲まんかい』と叱られる。焼き肉でも、自ら次々に肉を焼いてくれて、『はよ食べなさい』とせかされた。お酒が強くて、元日に師匠の家の座敷で朝から晩まで飲むんですが、途中で弟子たちがバタバタ倒れていく。師匠だけがずっと座って飲み、しゃべっていた」(小佐田さん)

 若いころからお茶屋に通い、時に弟子を同伴した。

「『安う遊ぶ方法もあんねん。お座敷で遊ぶさかい高いのや。わしも若いころには夏場には物干し台にお膳を持っていって、なじみの芸者さんとパッと騒いで帰ったりしたもんや』と。落語にはお茶屋が出てくるから、お弟子さんにはいい体験になるわけです」(同)

 最後の落語は2007年、姫路での「始末の極意」。以降、入退院を繰り返した。

週刊朝日 2015年4月3日号より抜粋