※イメージ写真
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 2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波により全校児童108人中74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市大川小学校。遺族取材を続けるジャーナリスト・池上正樹氏がその後の国や市の対応をレポートする。

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 市の事故検証委員会は、文科省が選定した防災コンサルタントに事務局が置かれ、9回の会合を経て最終報告書を作成。14年3月1日に亀山紘・石巻市長へ渡された。

 当初から遺族たちが強く求めていたのは「なぜ50分近くも校庭にとどまったのか?」と「なぜ遠回りのルートで川の堤防へ向かったのか?」という2点に関する徹底検証だった。しかし検証委の報告案は「学校側の避難開始の意思決定が遅かった」「避難先を河川堤防付近にした」と核心に踏み込むものではなかった。

 遺族は形だけの検証結果を突きつけられたとして100項目以上にわたる疑問を指摘。すると、検証委の室崎益輝委員長は「限界があった」「不十分だった」と認めた。最終報告に24項目の提言が並んだが「監視カメラを設置する」「立地条件を考慮する」などと大川小で起きた悲劇を検証しなくても書ける一般的なものばかりで遺族は納得しなかった。

 さらに遺族たちを刺激したのは、提言のなかで「子どもが自ら判断・行動する能力の向上」という文言が盛り込まれたことだ。あの日、津波に襲われる直前の校庭で「ここにいてはダメだ」「山へ逃げよう」と口々に訴えていたのは子どもたち自身であったことを考えると、検証委が本来大人が負うべき責任を子どもに置き換えたことに怒りを隠さない遺族もいる。

 しかも、提言のほとんどは、すでに13年2月の第1回会合で委員たちから出されていた教訓だった。だとすれば、検証に5700万円もの税金と1年以上という時間をかける必要が果たしてあったのか。失望感を募らせた19遺族(死亡児童23人)は真実を探るべく14年3月10日、県と市を相手に提訴した。5月19日の第1回弁論で、被告である県と市は「教職員が津波を予見できなかったのはやむを得なかった」との答弁書を提出した。原告は、学校にいて生還できたA教諭の早期の証人尋問などを申請し、支援者とともに「大川小学校児童津波被害国賠訴訟を支援する会」を結成した。

 遺族は8月26日の第2回弁論で、検証報告書の記述を「信用できない」として、検証報告の認定の前提となる資料の提出を求めた。12月9日の第3回弁論では、現場検証を求める申立書のほか、当時の校長、発生後間もなく作成した子どもたちへの「聴き取りメモ」を破棄したとされる指導主事の証人申請を提出した。

 被告の市側は準備書面で「震災前、裏山の整備などの対策を講ずべき義務や、津波災害時の避難場所、スクールバスによる避難体制を設定しておくべき義務があったものと認められない」と主張した。真相解明のために対話を求め続ける遺族と、組織を守るために建前を崩さない市教委。そのように映る構図は、4年経った今も変わらない。

 当時大川小の3年生だった未捺ちゃんを亡くした遺族の只野英昭さん(43)は、災害や自殺などで家族を失った全国の遺族たちと交流するなかで、行政のぞんざいな扱いを痛感したという。「自分自身が直面することで、こんなことがこれまでもずっと繰り返されてきたのかと知った」と落胆する。大川小を検証できなかった事実さえも、行政や専門家によって「限界があった」という実績として公的に記録が残されていく。

「役所は物の復興ばかり進めて、最も大事な『心の復興』がまったくなされていないのが現状ではないのか」

 只野さんら遺族2人は今年2月10日、文科省を訪れて「検証委員会の検証は不十分、不適切で、遺族は納得していない」と、ヒアリングの早期実施と不十分だった検証委についての検証を求める「遺族有志一同」名の要望書を学校健康教育課長に手渡した。それを受けて学校事故対応を調査する文科省の有識者会議は来年度、大川小の遺族からもヒアリングする方向だ。

 大川小事故を巡って、行政も検証委も混迷を続けてきた。当事者を軽視することが積み重ねられ、対立を深めたことが、遺族や子どもたちにどのように影響し、現在に至っているのか。

 傷ついた者たちが「おかしい」と言い続けない限り、問題はなかったことにされてしまう。大川小の子どもたちや遺族は地域のしがらみの中で惑いながらも、それぞれの目線で「教訓」を伝えようと道なき道を探っている。

週刊朝日 2015年3月13日号より抜粋