司馬遼太郎賞を受賞した、作家の伊集院静氏(撮影/写真部・小林修)
司馬遼太郎賞を受賞した、作家の伊集院静氏(撮影/写真部・小林修)

 昨年12月、作家の伊集院静さんが「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」で司馬遼太郎賞を受賞した。2月7日に行われた司馬遼太郎さんをしのぶ第19回菜の花忌シンポジウムでは、伊集院さんの講演が行われた。

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 賞の知らせが届いたのは12月14日の午後4時ぐらいで、一人の若い人の授業をしていました。授業のテキストの一つが司馬さんの『人間の集団について』でした。

 正岡子規の小説を書こうと決めてから長い歳月がたちました。タイトルは升(のぼる)という彼の幼少のときの名前で、「ノボさん」にしようと。

 私の仙台の家には2匹のイヌがいます。下のイヌの名前をノボルとしました。東北一のバカ犬ですが、走るがごとく、飛ぶがごとく生きて、もう14歳になります。

 私は、山口県の防府市三田尻で生まれました。司馬さんの『世に棲む日日』や『竜馬がゆく』に出てきます。父は韓国の慶尚南道の生まれで、13歳のときに母親から下関行きのフェリーの片道切符をもらって、一人で日本に渡ってきた。そして私の母と出会って6人の子どもを授かりました。父は母に子どもの教育をすべてまかせた。母は美しい日本語が書けるようにと姉たちには習字を徹底して教えた。まだ学校にあがらない私には覚えやすい俳句を口で聞かせてくれました。

 中学のときに国語の授業で一つの短歌に出会いました。「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」。教師は「この歌の作者は病気で伏している。その起き上がれない作者の目から見ると、瓶にさした藤の花ぶさがあとこれだけ届かないことが、自分の余命と重なっていると思う」と言った。写真に「正岡子規」とあった。横をむいている有名な坊主頭の写真です。私も野球をやっていて坊主頭。隣の友達から、「これ、おまえの顔に似とらんや?」と言われた。家へ帰って母親にその話をしたら、「もう一度正確に歌を読んでください」と言われ、母親がそれを書き写した。書き写して、声に出して覚えれば忘れないと、あとになってわかりました。

 母親から子規が家の前の海を越えた松山出身だと聞かされました。私は18歳で野球をやるために上京しました。体を壊して野球はやめましたが、どこかに正岡子規のことが残っていた。35歳でものを書くということを生業にしたらどうかと言われて、私は、父親と母親のことを『海峡』という小説で書いて、野球をテーマに『受け月』を書いた。それから10年ぐらいたったときに、ある雑誌で、野球のユニホームを着た子規の写真を見て驚きました。「日本の野球の草創期に、子規はこんなにも野球が好きだったんだ」と私は感動しました。この人の生涯をうまく書けないものかと思って、資料を調べました。子規が亡くなったときに、母親が子規の背中をポンとたたいて、「もう一回痛いと言うておみ」と言う。子規は亡くなる前の3年は「痛い、痛い」と泣き叫ぶんですね。その母親の言葉を聞いたときに、私は「これは八分どおりできる」と思いました。

 じゃあ残りの二分はなにか。大学予備門のときに優等生の夏目金之助(漱石)に子規は出会います。二人は落語好きで、やがて言葉を交わすようになる。ロンドンで子規の訃報を聞いた漱石は「きりぎりすの昔を忍び帰るべし」という句を作ります。もうキリギリスになって、昔のあの思い出の中へ帰っていけばいいじゃないか、という句に感銘を受けて、「これでこの小説は書ける」と思った。

 母親が私を、きちんとした日本語が話せる人間に育てようとして子規の俳句と巡り合った。そして、子規の母親が、死してもなお生きてほしいといった母親の愛情がこの作品を作らせたと思います。

 この作品は友情の物語です。友情というのは家族の愛とか、恋愛とは違う情愛がはたらくものです。じつは司馬作品の80%はこの友情というものが非常にきちんと描かれている。

 私はそう信じています。

週刊朝日 2015年3月13日号