※イメージ写真
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 端正で品のある芸と踊りで、多くの観客を魅了した。必ず病から復活して戻ってくる──。そんな期待は裏切られ、中村勘三郎さん、市川団十郎さんを追いかけるように逝ってしまった。芸を磨くとともに、若手の育成にも力を注いだ坂東三津五郎さん。生前に残した功績は大きい。

 自身の芸を磨くことに熱心だっただけでなく、若手の面倒見のよいことでも知られていた。市川海老蔵、中村勘九郎など、多くの若手の俳優が慕っていた。歌舞伎ソムリエのおくだ健太郎さんは言う。

「学究肌、研究熱心な方でした。技術的な演技指導だけでなく、作品の成り立ちや時代背景にも踏み込んだ、理知的で深みのある教え方のできる人だった、とお察しします。頼もしい兄貴分のような存在だったのではないでしょうか」

 BS朝日の歴史紀行番組「坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行」(10年10月~11年3月)のロケでも、「学究肌ぶり」を発揮していた。

「無類の城好き。事前に下調べをきっちりとしてくる人でした。城とその背後にある歴史、城下町が好き。その素晴らしさを伝えたい。その気持ちが私たちにも伝染してくるんです。現場でははしゃぎすぎと思うぐらい(笑)」(朝日映像・プロデューサーの惣部潔さん)

 城は、冷房も暖房もない。早朝ロケでも文句ひとつ言わなかった。

「結構、階段の段数が多かったり、天守閣には急な階段があったりするんです。三津五郎さんは一番年上なのに、先頭を切って颯爽(さっそう)と上がっていました」(同)

 着実にキャリアを重ねる一方で、私生活では2回の離婚歴がある。息子の巳之助さんとうまくいかない時期もあったようだ。週刊朝日の連載「親子のカタチ」(10年10月)では、

≪役者になるとか、坂東流家元を継ぐということ自体が嫌になって、14歳から16歳ぐらいまではだいぶ荒れていましたね―巳之助≫

≪「頼むからやってくれ」と言うのは絶対に嫌だった―三津五郎≫

 との会話を繰り広げている。その巳之助さんは今、活躍の場を広げている。2月には歌舞伎座の「吉例寿曽我(きちれいことぶきそが)」に出演。三津五郎さんの本葬翌日の千秋楽では、何度となく大向こうから声がかかった。そして舞台終盤、一人の男性が叫んだ。

「大和屋! 頑張れ!」

 勘三郎、団十郎に続いて三津五郎と、大名跡が相次いでいなくなってしまった歌舞伎界。いや応なく「歌舞伎界存続の危機」という声も耳に入ってくる。だが、元NHKアナウンサーで随筆家の山川静夫さんは断言する。

「明治以降、何度もこのような危機は訪れています。そのたびに立ち直って今につながっている。みな、これからというときにいなくなってしまって残念で仕方ないが、若手も頑張っています」

 歌舞伎俳優の尾上菊五郎も弔辞で、こう述べた。

「あなたのまいた種が5年後、10年後に花咲く日が楽しみ」

 芸と心意気は、次世代へとつながっていく。

(本誌・永野原梨香、横山 健、牧野めぐみ、福田雄一)

週刊朝日 2015年3月13日号より抜粋